「中央通り (東京都)」の版間の差分
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[[File:Nihonbashi 12.jpg|thumb|250px|[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]上の中央通り。下を流れるのは[[日本橋川]]、上空の高架は[[首都高速都心環状線]]。]]
'''中央通り'''(ちゅうおうどおり)は、
== 概要 ==
港区[[新橋 (東京都港区)|新橋]]から北へ、[[銀座]]・[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]・[[神田 (千代田区)|神田]]・[[秋葉原]]・[[上野]]といった著名な[[商業地]]・[[繁華街]]などを通る[[都心]]の大動脈で、東京都[[都市計画道路]]放射28号として指定されている。また、途中で経由する[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]は[[日本の道路]]の起点とされており、[[日本国道路元標]]がある。
1986年(昭和61年)8月10日に
全線に渡り東側を[[昭和通り (東京都)|昭和通り]]が並行しており、起終点で交差する。
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== 歴史 ==
1603年(慶長8年)、[[
[[神田川 (東京都)|神田川]]以北は五街道ではなく、江戸城から[[寛永寺]]へと向かう御成道([[御成街道]])に由来する。御成道は[[昌平橋]]と現在の[[万世橋]]の間の位置にあった筋違橋から[[下谷広小路]](現在の上野広小路)を経て、寛永寺境内(現在の[[上野恩賜公園]])の参道に接続していた。「御成街道」の名前は[[御成街道架道橋]]に残っている。また、万世橋の前後は架橋に伴って整備された道筋である。
日本橋周辺は、江戸の中心として有名大店が軒を並べ、[[魚河岸]]や[[市場|青物市場]]が開かれるなど、江戸の台所として発展。[[明治]]以降、中央通りは[[百貨店]]や[[問屋]]が立ち並ぶ通りへと変わり、現代も東京の金融や商業の中心地として沿道は発展している{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=72}}。
1872年(明治5年)の[[銀座大火]]後、当時[[東京府]][[都道府県知事|知事]]<!-- 記事「東京都知事」は官選知事について言及していない -->の[[由利公正]]は、[[銀座]]地区の区間(銀座通り)<!-- 日本橋 - 新橋の区間のおよそ南半分にあたるが、中央通り全体の南半分ではない -->に面する建物の不燃化を目指し、レンガ造りの洋風建築街([[銀座煉瓦街]])を完成させた{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=73}}。このとき、道路幅を当時のレベルでは画期的な広さである15[[間]](約27m)に拡幅改良して、[[歩道]]も分離してレンガで敷き詰め、[[マツ]]や[[サクラ]]の街路樹を植えた{{efn|この街路樹は、のちに[[ヤナギ]]に代えられた。}}。1882年(明治15年)には[[新橋 (東京都港区)|新橋]]から[[上野]]までを含む区間で、日本初の[[馬車鉄道]]である[[東京馬車鉄道]]が開業した。銀座地区は[[ガス灯]]が灯るなど西洋化を取り入れた先進的なモダンな通りへと変わっていき、繁華街として発展を見せはじめる{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=73}}。<!-- 銀座の発展について記述するのであれば関東大震災や戦災被害についても言及することが必要だが、出典元が顕彰的性質が強い文献のためか、バランスを欠いている。銀座の歴史は当該記事<https://ja.wikipedia.org/wiki/銀座#.E6.AD.B4.E5.8F.B2>で詳述されているため、本項では中央通りそのものについての記述にとどめる。 -->
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* [[1970年]](昭和45年)[[8月2日]]: 銀座にて東京で最初の[[歩行者天国]]が始まる。
* [[1986年]](昭和61年)[[8月10日]]: 日本橋 - 新橋間の中央通りが[[日本の道100選]]に選定される{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=9}}。
* [[2016年]](平成24年)[[10月7日]]: 銀座中央通りで、約80万人を集めた[[
== 路線状況 ==
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