「中央通り (東京都)」の版間の差分

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[[File:Nihonbashi 12.jpg|thumb|250px|[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の中央通り。下を流れるのは[[日本橋川]]、上空の高架は[[首都高速都心環状線]]。]]
 
'''中央通り'''(ちゅうおうどおり)は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]から同[[中央区 (東京都)|中央区]]を経由し、同[[台東区]]に至る道路の通称(東京都道路通称名)である。[[国道15号]]、[[国道17号]]、[[東京都道437号秋葉原雑司ヶ谷線|都道437号]]などから構成される。
 
== 概要 ==
港区[[新橋 (東京都港区)|新橋]]から北へ、[[銀座]]・[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]・[[神田 (千代田区)|神田]]・[[秋葉原]]・[[上野]]といった著名な[[商業地]]・[[繁華街]]などを通る[[都心]]の大動脈で、東京都[[都市計画道路]]放射28号として指定されている。また、途中で経由する[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]は[[日本の道路]]の起点とされており、[[日本国道路元標]]がある。
 
1986年(昭和61年)8月10日に[[明治]]近代化のシンボル・銀座の道として、旧[[建設省]]と「道の日」実行委員会により制定された[[日本の道100選]]の一つにも選ばれており、中央区の公式通称ではないが<ref>{{Cite web|url=http://www.city.chuo.lg.jp/kankyo/dorokyoryo/doroaisyomei/aisyoumeizuzenntai.files/H2710douroaisyoumei.pdf|title=H2603中央区道路愛称名|accessdate=2017-12-02|format=PDF|publisher=中央区}}</ref>、銀座通り口交差点から銀座八丁目交差点にかけては「銀座通り」や「銀座中央通り」の愛称で呼ばれることもある<ref>{{Cite web|url=http://www.gotokyo.org/jp/kanko/chuo/spot/s_169.html|title=銀座通り/東京の観光公式サイト GO TOKYO|accessdate=2017-12-02|publisher=公益財団法人 東京観光財団}}</ref>。
 
全線に渡り東側を[[昭和通り (東京都)|昭和通り]]が並行しており、起終点で交差する。
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== 歴史 ==
1603年(慶長8年)、[[江戸幕府|徳川幕府]]は[[江戸城]]の東側海岸地を埋め立てて[[江戸]]の町割りを行い、街道を整備した{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=72}}。このとき[[日本橋 (東京都)|日本橋]]が架けられ、翌1604年(慶長9年)に幕府は日本橋を[[五街道]]の起点と定めて、街道筋に[[一里塚]]を築いた{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=72}}。五街道のうち、[[品川宿]]へと向かう[[東海道]]が現在の中央通りの日本橋以南、[[板橋宿]]へと向かう[[中山道]]が日本橋から[[神田須田町|須田町]]交差点の南側までの区間である<!-- 須田町交差点のすぐ南のY字路で分岐しており、須田町交差点は旧中山道の区間に含まれない -->。[[千住宿]]へと向かう[[日光街道]]・[[奥州街道]]<ref group="注釈">日本橋から[[宇都宮宿]]までは重複。</ref>は現在の[[日本橋室町|室町]]三丁目南交差点で中山道から、[[内藤新宿]]へと向かう[[甲州街道]]は日本橋交差点で東海道から分岐していた。1873年(明治6年)、[[明治維新|明治政府]]は日本橋に[[道路元標]]を設置して、全国各地へ延びる国道の起点とし、これは現在も日本国道路元標とした標識板に形を変えて日本橋の路面中央部に埋め込まれている{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=72}}。
 
[[神田川 (東京都)|神田川]]以北は五街道ではなく、江戸城から[[寛永寺]]へと向かう御成道([[御成街道]])に由来する。御成道は[[昌平橋]]と現在の[[万世橋]]の間の位置にあった筋違橋から[[下谷広小路]](現在の上野広小路)を経て、寛永寺境内(現在の[[上野恩賜公園]])の参道に接続していた。「御成街道」の名前は[[御成街道架道橋]]に残っている。また、万世橋の前後は架橋に伴って整備された道筋である。
 
日本橋周辺は、江戸の中心として有名大店が軒を並べ、[[魚河岸]]や[[市場|青物市場]]が開かれるなど、江戸の台所として発展。[[明治]]以降、中央通りは[[百貨店]]や[[問屋]]が立ち並ぶ通りへと変わり、現代も東京の金融や商業の中心地として沿道は発展している{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=72}}。
 
1872年(明治5年)の[[銀座大火]]後、当時[[東京府]][[都道府県知事|知事]]<!-- 記事「東京都知事」は官選知事について言及していない -->の[[由利公正]]は、[[銀座]]地区の区間(銀座通り)<!-- 日本橋 - 新橋の区間のおよそ南半分にあたるが、中央通り全体の南半分ではない -->に面する建物の不燃化を目指し、レンガ造りの洋風建築街([[銀座煉瓦街]])を完成させた{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=73}}。このとき、道路幅を当時のレベルでは画期的な広さである15[[間]](約27m)に拡幅改良して、[[歩道]]も分離してレンガで敷き詰め、[[マツ]]や[[サクラ]]の街路樹を植えた{{efn|この街路樹は、のちに[[ヤナギ]]に代えられた。}}。1882年(明治15年)には[[新橋 (東京都港区)|新橋]]から[[上野]]までを含む区間で、日本初の[[馬車鉄道]]である[[東京馬車鉄道]]が開業した。銀座地区は[[ガス灯]]が灯るなど西洋化を取り入れた先進的なモダンな通りへと変わっていき、繁華街として発展を見せはじめる{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=73}}。<!-- 銀座の発展について記述するのであれば関東大震災や戦災被害についても言及することが必要だが、出典元が顕彰的性質が強い文献のためか、バランスを欠いている。銀座の歴史は当該記事<https://ja.wikipedia.org/wiki/銀座#.E6.AD.B4.E5.8F.B2>で詳述されているため、本項では中央通りそのものについての記述にとどめる。 -->
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* [[1970年]](昭和45年)[[8月2日]]: 銀座にて東京で最初の[[歩行者天国]]が始まる。
* [[1986年]](昭和61年)[[8月10日]]: 日本橋 - 新橋間の中央通りが[[日本の道100選]]に選定される{{sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=9}}。
* [[2016年]](平成24年)[[10月7日]]: 銀座中央通りで、約80万人を集めた[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロオリンピック]]・[[2016年リオデジャネイロパラリンピック|パラリンピック]]でメダルを獲得した選手たちによる凱旋パレードが開催される<ref>{{Cite news|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161007/k10010721081000.html|title=リオ五輪・パラリンピックパレード 大勢の人が祝福|publisher=日本放送協会|date=2016-10-07|accessdate=2016-10-08}}</ref>。<!-- 中央通りでのパレードは昔からたびたび行われているはずで、本パレードにどれだけの特筆性があるかは疑問 -->
 
== 路線状況 ==