「乃木希典」の版間の差分

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(1)現役の陸軍大将として軍事参議官に親補されていた乃木が、明治40年に文官職である学習院長を兼任した際、本来であれば規定により予備役編入されるところを、明治天皇の勅旨により現役に留まったこと、(2)そのことについて桑原嶽が「これは当然、終身現役である元帥への昇進の含みもあったからであろう。」と述べていること、の2点につき、出典を提示して加筆。
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[[File:褌一丁姿の乃木希典.jpg|thumb|250px|[[片瀬海岸]]で[[パンツ一丁|褌一丁]]になり学習院の生徒らに水泳を指導する乃木希典。]]
==== 明治天皇による勅命 ====
明治40年([[1907年]])[[1月31日]]、[[軍事参議院|軍事参議官]]の乃木は[[学習院]]長を兼任することとなったが、この人事には明治天皇が大きく関与した。山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を天皇に内奏した。しかし、天皇はこの人事案に裁可を与えず、皇孫(後の[[昭和天皇]])が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院長に指名した{{Sfn|岡田|2001|p=209以下}}{{Sfn|佐々木|2005|p=38-39}}。学習院長は文官職であり、陸軍武官が文官職に就く場合には、陸軍将校分限令により予備役に編入される規定であった<ref name=":2">{{Harvnb|桑原|2019|p=|pp=|loc=位置No. 2714/2739, 第六章 日露戦争の終結とその後の乃木希典 - 明治天皇の思し召しで学習院長に}}</ref>。しかし、明治天皇の勅命により、乃木は予備役に編入されなかった<ref name=":2" />
 
天皇は、乃木の学習院院長就任に際して、次のような[[和歌]]を詠んだ{{Sfn|佐々木|2005|p=161}}。
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=== 元帥府に列せられる前に殉死 ===
現役の陸軍大将として軍事参議官に親補されていた乃木は、大正元年([[1912年]](大正元年)に明治天皇に殉死した。

明治40年([[1907年]])に乃木が学習院長を兼任した時に、陸軍将校分限令の規定によって予備役に編入されるべきところを、明治天皇の勅命により現役に留まるという異例の人事がなされたことについて、桑原嶽は「これは当然、終身現役である元帥への昇進の含みもあったからであろう。」と述べている<ref name=":2" />。

仮に乃木が明治天皇に殉死しなかったら、という前提で、乃木がいずれ[[元帥府]]に列せられたかどうかにつき、軍事史家の横山恵一は「歴戦の功将、人格高潔な武将という点で元帥を選考するなら、乃木は将に将たる器で、選に入ったのではないですか。」と述べ、[[秦郁彦]]は「〔乃木が〕生きていれば大正四年〔[[1915年]]〕に[[長谷川好道]]、[[伏見宮貞愛親王|貞愛親王]]、[[川村景明]]といっしょにね。」と述べている<ref>{{Harvnb|半藤|2013|p=|pp=|loc=位置No. 1714/1990, 第四章 日露の戦いのなかで-乃木希典 - 仁将の誕生}}</ref>。
 
=== 日露戦争における自責の念 ===