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'''柳生藩'''('''やぎゅうはん''')は、[[江戸時代]]、[[大和国]][[添上郡]][[柳生]](現[[奈良市]]柳生地区)に存在した[[藩]]である。藩主家は[[柳生氏]]。石高1万石程度の小藩であったが、将軍家の剣術指南役として重きをなした
 
石高1万石程度の小藩であったが、藩主の[[柳生氏]]は代々将軍家の剣術指南役として幕閣に重きをなした。
== 柳生氏 ==
 
=== 柳生氏、大名への歴史 ===
柳生氏のもとの姓は[[菅原氏|菅原]]という。一説には『学問の神様』で有名な[[菅原道真]]が祖先とも言われているが、これは正確にはわからない。柳生氏で世俗が明らかになるのは初代・[[柳生宗珍]]の頃からで、[[上泉信綱]]から[[新陰流]]を相伝された[[柳生宗巌]](石舟斎)は、宗珍から8代目に当たる人物である。
 
宗巌は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[松永久秀]]に仕えたが、その久秀が[[織田信長]]と争って滅亡し、さらに[[豊臣秀吉]]の[[太閤検地]]によって柳生氏の隠田であった2000石の所領が没収されるなど、次第に落ちぶれていった。しかし、[[黒田長政]]の仲介により秀吉に次ぐ大実力者・[[徳川家康]]と出会った宗巌は、家康の前で「無刀取り」を披露したことにより、兵法指南役に迎えたいと申し出てくる。しかし、宗巌は当時、すでに66歳という老齢だったため、これを辞退する代わりに、五男の[[柳生宗矩]]を指南役として推挙したのである。ちなみにこれは[[文禄]]3年[[5月3日]]のことである。そのことが、『玉栄拾遺』にも詳細に記されている。
 
「文禄甲午の年、聚楽紫竹村にて宗巌公の剣術始て神君(徳川家康)上覧。木刀を持玉ひ。宗巌是を執るべしと上意あり。即ち公無刀にて執り給ふ。其時神君後ろへ倒れ玉はんとし、上手なり向後師たるべしとの上意の上、景則の刀を賜ひて誓詞を辱くす。時に5月3日也。且俸禄200石を賜ふ」
 
なにはともあれ、信長・秀吉時代に落ちぶれた柳生氏は、家康によって再び世に出ることとなったのである。
 
=== 宗矩の出世 ===
宗矩は宗巌の五男である。それがなぜ、[[徳川氏]]に仕えることとなったのかと言うと、長男の[[柳生巌勝]]は久秀配下として[[筒井順慶]]と戦ったとき、戦傷を負い、次男の[[柳生久斎]]と三男の[[柳生徳斎]]は僧侶となり、四男の[[柳生宗章|柳生五郎右衛門]]は[[中村一氏]]に仕官していたからである。
 
家康に仕えた宗矩は、大いに活躍した。[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]では家康の命を受けて大和の豪族の調略に従事し、西軍の後方攪乱作戦も務めた。翌年、その功績により旧領2000石に加えて新たに1000石を加増され、[[徳川秀忠]]の兵法指南役となる。ちなみに、宗矩は秀忠からの信任が厚かったと言われている。[[1614年]]の[[大坂冬の陣]]では徳川軍の大和国の道案内役を務め、翌年の[[大坂夏の陣]]では秀忠の身辺警護を務め、敵兵7名を斬り殺した。
 
[[1621年]]からは[[徳川家光]]の兵法指南役となり、[[1629年]]には従五位下[[但馬国|但馬]]守を叙任する。[[1632年]]には[[井上政重]]らと共に[[大目付]]に任じられ、3000石を加増された。[[1636年]]には4000石を加増され、合計1万石の[[大名]]となる。[[1639年]]にも2000石、翌年にも500石を加増され、合計して1万2500石を領する大名となった。
 
 
ちなみに、少なすぎると思う人もおられるであろうが、宗矩と同時期に徳川氏に仕えていた小野派一刀流の開祖・[[小野忠明]]([[御子神典膳]])の所領はわずか600石ほどに過ぎなかった。しかも当時、[[剣術家]]に対する世の評価はあまり高くなかったのである。その中で宗矩は家康・秀忠・家光の徳川三代に仕えて大名にまで栄進したのだから、相当の信任を受けていたことがうかがえるであろう。
 
ちなみに、宗矩が秀忠や家光から重用されたのは、彼が頭脳明晰であったこともあるが、それと同時に諜報活動にも長けていたからである。その証拠として、それまで奉行も目付の経験もない宗矩が、井上政重らと並んで大目付に抜擢されたことである。柳生氏には表と裏の顔があった。表面上は新陰流の剣術家であるが、その裏では[[伊賀]]や[[甲賀]]の忍びを取り込んで諜報活動を行なう『裏柳生』と言われる顔があった。大坂の陣直前、[[豊臣氏]]恩顧の有力大名である[[加藤清正]]や[[浅野幸長]]らが突如として急逝するという出来事があったが、これは実は裏柳生が密かに毒殺したという説もあるほどだ。いわば、宗矩は諜報活動において、秀忠や家光の信任を得ていたのである。
 
ちなみに厳勝の子である[[柳生利巌]]・[[柳生厳包|厳包]]父子は[[尾張藩]]に仕えて活躍し、五郎右衛門は中村家[[家老]]・[[横田村詮]]の粛清に抗議して誅殺されている。
 
=== 千姫事件での暗躍 ===
大坂の陣のとき、[[豊臣秀頼]]の正室・[[千姫]](秀忠の娘)の救出で[[坂崎直盛]]は功を挙げた。これにより直盛は、家康から千姫の婿として選ばれたが、翌年に家康が死去してしまったため、これは実現せずして終わった。しかも家康の死により、千姫の結婚相手が新たに[[本多忠刻]]([[本多忠勝]]の孫)として選ばれてしまったのである。
 
そうなると、直盛も黙ってはいない。忠刻のもとに嫁ごうとする千姫の輿を奪取しようという計画を立てたのだ。しかし、計画が事前に露見したため、直盛は自邸に兵を引き連れて立て籠もった。この事態に慌てた秀忠は、宗矩に命じて直盛の説得に向かわせた。しかし、宗矩の説得に直盛は聞く耳を持たない。そこで宗矩は一計を案じた。坂崎氏の家臣団に対して、「このまま幕府に反逆しても、わずか3万石程度の坂崎家が勝てるわけがない。しかし直盛の首を差し出すのであれば、直盛の弟・[[坂崎大膳]]への所領相続を認める」と[[老中]]奉書を差し出して約束したのである。その約束を信じた家臣団は、直盛を即座に討ち取って首を差し出した。しかし、坂崎氏は存続を認められず、[[改易]]されてしまった。言わばこれは、宗矩の巧妙な謀略だったのである。
 
== 藩史 ==