「街亭の戦い」の版間の差分

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[[225年]]、[[南蛮]]を平定し後顧の憂いを除いた[[諸葛亮]]は、いよいよ先主[[劉備]]の悲願であった漢室再興の計画に取りかかった。[[227年]]、北伐の準備を整えた諸葛亮は、諸軍を率いて[[漢中郡|漢中]]に駐屯し、後主[[劉禅]]に「[[出師の表]]」を奉って敵国魏の打倒を誓った。
 
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏延]]伝によると、蜀将の魏延は、自分が兵1万を率い、かつての[[韓信]]のように、諸葛亮の本隊と別の道を通り、[[潼関]]で落ち合うという作戦を提案した。また『[[魏略]]』によると、当時[[長安]]には安西将軍の[[夏侯楙]]が駐屯しており、彼が臆病で無策な人物であるということから、魏延は漢中における軍議で、自らが精鋭5千を率い指揮して長安を奇襲する作戦を提案したという。しかし諸葛亮は魏延の作戦を採用しなかった。
 
魏が警戒していたと記録される蜀の人物は関羽<ref>「劉曄伝」</ref>と劉備のみであり、劉備が死ぬと油断して蜀に対して備えていなかったという<ref>(『魏略』)</ref>。涼州刺史には諸葛亮の親友であった[[孟建]]が就任していたが、この直前に[[徐邈]]へと交代している。