「シク教」の版間の差分

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18世紀末にはミスルのひとつである[[スケルチャキア・ミスル]]([[:en:Sukerchakia Misl|Sukerchakia Misl]])から[[ランジート・シング]]が現れ、1801年には首都を[[ラホール]]に定めて[[シク王国|シク]]教[[シク王国|国]]を建国した。ランジート・シングは[[サトレジ川]]以西のシク教圏を統一し、パンジャーブのみならず[[ムルターン]]や[[カシミール]]まで勢力を拡大し、全盛期を迎えた。しかし1839年にランジート・シングが死亡すると間もなく後継者争いが勃発して内部は混乱し、また南に勢力を伸ばしてきた[[イギリス]]がこの混乱を見て介入を開始した。
 
1845-46年の[[第一次シク戦争]]でシク国は敗北し、[[ラホール条約]]によってカシミールやパンジャブの東半分をイギリスに奪われた。さらにイギリスの支配に反発した民衆は反乱を起こし、1848年には[[第二次シク戦争]]が勃発した。この戦争も翌1849年にはシク側の敗北に終わり、全パンジャーブが英領になってシク教国は滅んだ。シク教国の滅亡によってインド亜大陸にイギリス統治に服していない勢力は存在しなくなり、インドは完全にイギリスの植民地となった<ref>「南アジア史」(新版世界各国史7)p288 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行</ref>。
 
=== 英領時代 ===