「セルビアの歴史」の版間の差分

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[[画像:Svsimeon.jpg|thumb|right|220px|[[ネマニッチ朝]]の創始者[[ステファン・ネマニャ]]]]
 
彼の兄弟による王位の争いの後、[[ネマニッチ朝]]の創始者、[[ステファン・ネマニャ]]が[[1166年]]に勃興してラシュカ地域のセルビア国家を新たにした。時には[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]による援助を受けるとともに、時には同帝国に反抗し、「大ジュパン」 ([[:sr:Велики жупан|Veliki Župan]]) を名乗った。 ステファン・ネマニャは、領域を東と南に拡大することで増大し、新たに沿岸地方および[[ゼタ (モンテネグロ)|ゼタ]]地域を併合した。 政府の努力に加えて、「大ジュパン」 (veliki zupan) は[[修道院]]の建設に多大な注意を注いだ。 彼の寄進には[[ジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院]] ([[:en:Đurđevi stupovi|Đurđevi stupovi]])、ラシュカ地方の[[ステュデニツァ修道院]] ([[:en:Studenica monastery|Studenica]])、[[アトス山]]の[[ヒランダリウ修道院|ヒランダル修道院]]が含まれる。 ネマニッチ王朝はセルビアを黄金時代に導いた。それは14世紀半ばの[[ツァーリ|ツァール]](皇帝)[[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]]の統治下で絶頂に達した。しかし、最終的には[[オスマン帝国]]に屈服した(ゼタにて最後となった要塞は[[1499年]]に陥落した)。
 
ステファン・ネマニャの王位は第二子の[[ステファン・ネマニッチ]](ステファン初代戴冠王、Stefan Prvovenčani)に継承された。ステファン・ネマニャの末子ラストコ (Rastko) は[[神品 (正教会の聖職)|神品]]となり「[[聖サヴァ]]」の名前を戴き人々に[[キリスト教]]を広める努力をした。[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]がすでにバルカン半島への影響力を拡大する野心を持っていたため、ステファン2世はこれらの都合の良い状況を、教皇から戴冠してもらうために利用した。こうして彼は[[1217年]]に教皇[[ホノリウス3世 (ローマ教皇)|ホノリウス3世]]によって戴冠し、最初のセルビア王となったのである。 実際には彼はラシュカからきた最初のセルビア王であった。なぜなら、最初のセルビア王は(1077年)のゼタ出身のミハイロ王 (Mihailo) だからであった。ビザンツ東ローマ帝国では彼の弟サヴァがセルビア教会のために[[自治正教会|自治教会]]の地位の獲得に努力し、[[1219年]]にかれは[[セルビア正教会]]の[[大主教]]になった。こうして、セルビア人は世俗と宗教の両方の独立を獲得した。
[[画像:ShepherdByzempire1265.jpg|thumb|left|260px|1265年のセルビア]]
 
[[1265年]]、セルビアの統治者はステファン・ネマニッチの息子たち、[[ステファン・ラドスラヴ|ラドスラヴ]]、[[ステファン・ヴラディスラヴ|ヴラディスラヴ]]および[[ステファン・ウロシュ1世|ウロシュ1世]]へと移った。彼らは国家構造の停滞の時代に足跡をのこした。 これらの3人の王は多かれ少なかれビザンツ東ローマ帝国や[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア]]、[[ハンガリー]]のような幾つかの隣国に依存した。 彼の息子[[ステファン・ドラグティン]]がハンガリーの王女との結婚したことによって、ドラグティンへの王位継承にはハンガリーとの結びつきが重要な役目を果たした。のちにドラグティンが彼の弟ステファン・ミルティンに譲位したとき(1282年)、ハンガリー王[[ラースロー4世]]が北セルビアを征服併合しようとして、代わりにドラグティンに北ボスニア、[[マチュヴァ]]地方 (Mačva) と[[ベオグラード]]市を与えることになった。 こうしてこれらの領土の中には初めてセルビアの版図になったものもあった。彼の新しい王国は「[[スレム王国]]」を名乗った。そのとき、「[[シルミア|スレム]]」の名は二つの版図の称号 であった(「上スレム」は現在の[[シルミア|スレム]]、「下スレム」はマチュヴァ)。ステファン・ドラグティン治世のスレム王国はまた、上スレムの向こうの[[スラヴォニア]]も統治した。1316年のドラグディン王の死後、スレム王国の新しい統治者には彼の息子のステファン・ウラディスラヴ2世がなった。彼は1325年までこの国を統治した。
 
ステファン・ドラグティンの弟ミルティン([[ステファン・ウロシュ2世ミルティン|ステファン・ウロシュ2世]])の統治のもと、セルビアは一層強大になった。ミルティンの統治のもと、セルビアは、時折3つの異なる戦線で戦わなければならない事実に拘わらず、一層強くなった。ステファン・ウロシュ2世は、中世の政略的な外交-政略結婚を大いに活用した外交官であった。彼は5度結婚している。ハンガリーの王女、ブルガリアの王女、ビザンティン東ローマ帝国の皇女とである。彼はまた教会の造営で有名で、そのいくつかは中世セルビア建築の好例となっている。すなわちコソヴォのグラチャニツァ修道院 ([[:en:Gračanica monastery|Gračanica]])、[[アトス山]]の[[修道院]]である[[ヒランダリウ修道院|ヒランダル大聖堂]][http://www.kosovo.com/egracanica.html]、[[エルサレム]]の[[聖大天使教会]]などである。その寄進のおかげで、乱れた生活にもかかわらず、ミルティン王は聖人に列せられた。 彼の息子ステファンが玉座を継承した。彼は後にステファン・デチャンスキと呼ばれた。 ニシュの町と周辺の諸郡の征服による東方とマケドニアの領域の併合による南方への拡大がなされた。 [[ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ|ステファン・デチャンスキ]] (Stefan Uroš III Dečanski) は彼の父同様に偉大な人物であり、[[コソボ|メトヒヤ]]の[[デチャニ修道院]]を造営した。セルビア中世建築の記念碑的好例で、それは彼のあだ名に由来する。
 
[[画像:CarDusan.jpg|thumb|right|260px|皇帝[[ステファン・ドゥシャン]]]]
[[画像:Empire de Dušan.svg|thumb|left|260px|最盛期となったドゥシャン時代のセルビアの版図]]
中世のセルビアは、ヨーロッパにおいて、政治的、経済的および文化的に高い名声を享受した。セルビアは封建的命令を実行しなかった数少ない国家のひとつであった。国王[[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン|ステファン・ドゥシャン]] (Stefan Dušan) 治世の14世紀半ば、中世セルビアは最盛期を迎えていた。これは当時のヨーロッパ諸国の中でも特色のある法律的業績である、[[ドゥシャン法典]](Dušanov Zakonik、[[1349年]])の時代である。ステファン・ドゥシャンは新しい交易路を開き、国家経済強化した。セルビアはヨーロッパで最も発展した諸国、諸文化のひときわ目立つ国の一つとして繁栄した。セルビアの最も偉大なる中世芸術のいくつかはこの時代、特に、聖サヴァの[[教会法|聖規則]]の時代に作られた。ステファン・ドゥシャンは国土を南・南東・東に拡大しビザンティン東ローマ領の一部を切り取って版図を倍にした。今日のギリシアはペロポネソス半島と島嶼部を除いてすべて彼の手中に入った。彼がセル (Ser) の町を征服した後の1346年、彼は初代セルビア大主教によって、「セルビアおよびギリシア皇帝」に戴冠された。ステファン・ドゥシャンは教皇とともに脅威であったオスマン帝国に対して十字軍を組織しようとした。不幸なことに彼は1355年12月、47歳で亡くなった。
近年皇帝の遺体を検視した結果死亡原因は毒殺だとわかった。後を継いだのは『弱虫』と呼ばれた息子の[[ステファン・ウロシュ5世]] ([[:en:Stefan Uros V|Stefan Uros V]]) であるが、このあだ名はそのまま王国にもあてはまり、徐々に封建的な無政府状態が社会を支配するようになる。この時代には新たな脅威が台頭した。それは[[オスマン帝国]]で、[[アジア]]で拡張した後まず[[ビュザンティオン]]を征服し、さらに[[バルカン半島]]諸国を足がかりに[[ヨーロッパ]]をめざしていた。