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なお、市内の[[芦沢の井]](吉田町)は、1185年(元暦2年)[[壇ノ浦の戦い]]で敗れた平家の武将[[平景清]]が居住した地と伝えられている。
 
[[室町時代]]になると知多郡は三河国守護[[一色]]氏の支配下に入った。そして15世紀後半に[[水野貞守]]が[[緒川城]]を築城すると、市域は水野氏の支配下に入った。1467年(応仁元年)に[[応仁の乱]]が起こると、尾張[[守護代]]であった[[織田信長]]が守護の[[斯波]]氏を退けて実権を握り、水野氏との衝突が起こったが、後に両者は和睦し、知多半島北部は水野氏の支配下にとどまった。なお[[延命寺 (大府市)|延命寺]](大東町)には水野氏に関連する書類等が保管されている。また永禄年間には駿河の[[今川義元]]の勢力が尾張国にも及び、1558年(永禄元年)から1561年(永禄4年)にかけて織田信長と今川義元、そして[[水野信元]]と松平元康(後の[[徳川家康]])が市内を流れる[[境川 (境川水系・愛知県)#支流|石ヶ瀬川]]を挟んで衝突した([[石ヶ瀬川の戦い]])。そして1560年(永禄3年)に[[桶狭間の戦い]]で今川義元が敗れると、織田・水野氏は松平元康と和睦し、尾張国は統一された。なお、当時市域には[[追分城]]や[[横根城]]が築城され、現在は[[首塚]]などが遺っている。
 
また中央の公家[[七津大夫]](ななつたゆう)([[滝本中納言]])が応仁の乱の戦火をさけて[[大清水]](桃山町)付近に移住し、村を「大夫」と名付けたとされ、現在の市名の由来とも伝えられている。