「浦野烋興」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
65行目:
政界引退を表明した浦野は、落選後の半年間は農作業に「無我夢中で打ち込んだ」という<ref>『中日新聞』1998年6月18日付朝刊、県内版、16面、「混戦の内側 秒読み参院選あいち (1) くら替え 聞いた名前の戦いに 風を頼まず『身内選挙』」。</ref>。しかし[[1997年]]の初めに自民党本部から次期参院選出馬の強い要請があり、同年7月に立候補の意志を固めた<ref>『中日新聞』1997年7月22日付朝刊、2面、「浦野氏が参院選へ 自民本部要請 出馬固める 愛知選挙区」。</ref>。[[10月9日]]、自民党は、次期参院選の[[愛知県選挙区]]に、県連会長の[[大木浩]]と浦野の二人を公認することを決定<ref name="chunichi19971012">『中日新聞』1997年10月12日付朝刊、38面、「『派閥超え党勢を拡大』 来夏参院選愛知選挙区 自民公認2人が決意」。</ref>。そして浦野はトヨタ自動車から全面的な支援を受けることとなった。
 
トヨタ自動車は「浦野を絶対落とすな」の大号令をかけ、グループ10社から専従社員を集め、本社総務部内に選対本部を置いた。1万人の課長職以上の社員に後援会員集めを指示し、ひとり当たり10人以上のノルマを課した<ref>『中日新聞』1998年6月20日付朝刊、県内版、20面、「混戦の内側 秒読み参院選あいち (3) トヨタ労使 会社『中部のために』 本気感じ警戒隠さぬ組合」。</ref>。1998年5月30日に行われた支援母体「夢・あいち21」の豊田加茂地区大会でトヨタ自動車の[[張富士夫]]専務は「[[日本経済団体連合会|経団連]]で[[豊田章一郎]]会長を補佐して痛感したのは、自民本部や国政とのパイプ役が全くないことだ。国政の商工分野等で過去実績を示す浦野氏はその意味で大きな存在となろう。トヨタも支援に本腰を入れる」と力説した<ref>『新三河タイムス』1998年6月4日、1面、「参院選は会社挙げて支援! 30日浦野氏の夢・あいち21豊田加茂大会 トヨタの張専務が力説」。</ref>。選挙終盤では豊田会長が章一郎は販売店などに直接電話を入れ、[[奥田碩]]社長も必勝のはち巻き姿で演説会場に飛び入りした<ref>『中日新聞』1998年7月13日付朝刊、19面、「参院選 トヨタ首脳に衝撃 浦野さん『不徳、申し訳ない』」。</ref>。
 
[[1998年]][[7月12日]]、[[第18回参議院議員通常選挙]]が行われる。無情にも大木との間で票が割れ、浦野は大木とともに落選。再び政界引退を表明{{Refnest|group="注"|[[中日新聞]]による引退後の取材では「[[選挙制度]]改革に翻弄され、[[政治家]]としては不完全燃焼だった」と語っている{{要出典|date=2019年7月}}。政界引退後は、豊田市四郷町下古屋自治区顧問や義父・幸男が創設した豊田市柔道会の顧問を務めた{{要出典|date=2018年12月}}。}}。