「一撃離脱戦法」の版間の差分

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[[大日本帝国海軍|日本海軍]]のエース[[岩本徹三]]は、一撃離脱を鉄則にしていた。岩本は「敵が来る時は退いて敵の引き際に落とすんだ。つまり上空で待機してて離脱して帰ろうとする奴を一撃必墜するんだ。すでに里心ついた敵は反撃の意思がないから楽に落とせるよ」、「敵の数が多すぎて勝ち目の無い時は目をつむって真正面から[[機関銃|機銃]]撃ちっぱなしにして[[操縦桿]]をぐりぐり回しながら突っ込んで離脱する時もあるよ」と語っている。しかし、これに対し[[西沢広義]]の「途中で帰る奴なんか、被弾したか、臆病風に吹かれた奴でしょう。それでは(他機との)協同[[撃墜]]じゃないですか」という指摘もある<ref>角田和男『修羅の翼』光人社NF文庫361-365頁</ref>。このほか、[[菅野直]]は大型[[爆撃機]]の邀撃に直上方より行う一撃離脱戦法を考案し、戦果を上げた。前方高度差1,000m以上をとり背転し、真っ逆さまに垂直で敵[[編隊 (航空機)|編隊]]に突っ込み死角となる真上から攻める。しかし、敵機との衝突を避けるため尾部を通っているとそこに[[弾幕]]を準備されたため、主翼前方を抜けることにした。敵機の銃座から[[射撃]]されない位置だが衝突の危険が高く、高い反射神経と恐怖に打ち勝つ精神力が求められる攻撃であった<ref>丸『最強戦闘機紫電改』光人社169、176-177頁</ref>。また、この戦法は同期の森岡寛に菅野から伝授され、[[第三〇二海軍航空隊|302空]]で訓練され、[[1944年]]11月からの迎撃戦で威力を発揮した<ref>碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p283</ref>。
 
=== 機体 ===
一撃離脱戦法に向いた戦闘機と、格闘戦(巴戦ともえせん)に向いた戦闘機とに分かれる。 例えるなら、マンガ「頭文字Dいにしゃるでぃ」における、三菱・ランエボ 対 藤原とうふ店トヨタ・ハチロク のバトルでの前者はターボ付きの高馬力エンジンで直線番長、真っすぐな道でなら並ぶ者
 
無き最速の王者だが、カーブではその速度ゆえ曲がり切れず、よく効く4輪
 
ディスクブレーキで急減速しゆっくり曲がり、カーブの出口でアクセルべた踏み、急加速で減速したのをとりもどす戦法。 一方の主人公の乗るハチロクは非力なエンジンで小型車、速度も出ない、かわりに主人公の操っるドリフト走行=横滑りを利用したカーブを曲がる技、で、そんなに減速せずに、するんだけど、悪い言葉になるがカーブで先行して進路妨害をし相手の鼻先を抑える戦法。
 
飛行機と車を比較するのもナンセンスと思うが、現実に戦闘機で空中戦をした読者はいないと思うので最もイメージしやすいもので例えてみた。
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== 艦隊 ==
[[太平洋戦争]]緒戦において[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[第一航空艦隊]]は、[[真珠湾攻撃]]などの[[空襲]]において、剣術家でもある[[参謀長]]の[[草鹿龍之介]][[少将]]の思想の下、一撃離脱を実施していた<ref>佐藤和正『連合軍が恐れた五人の提督』光人社NF文庫</ref>。草鹿は「攻撃は十分な調査、精密なる計画のもと、切り下す一刀の下に全て集中すべきなり」という思想を持っていた<ref>戦史叢書43巻 ミッドウェー海戦 583頁</ref>。真珠湾攻撃で再攻撃を実施しなかった判断に批判もあるが、草鹿は、報告から[[作戦]]の成功を知った以上、すぐに他の敵に構える必要があるとして、批判は兵機戦機の機微に触れないものの戦略論と述べている<ref>戦史叢書10巻 ハワイ作戦 345頁</ref>。