削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
3行目:
|image =
|caption =
|location = [[富山県]][[魚津市]]<ref name="魚津市2011">{{Cite web |url=https://www.city.uozu.toyama.jp/event-topics/svEveDtl.aspx?servno=764 |title=魚津大火から55年 ~焼け跡の人々~ |publisher=[[魚津市]] |date=2011年9月28日 |accessdate=2019年8月21日 }}</ref>
|location = [[富山県]][[魚津市]]
|date = [[1956年]]([[昭和]]31年)[[9月10日]]{{R|魚津市2011}}
|time = 19時45分{{R|魚津市2011}}
|timezone =
|acres = 1,583戸{{Efn|テレビ朝日2016年報道によれば1,677棟{{R|テレ朝2016}}。}}
|acres = 1583戸
|source = 不明
|landuse =
|fatalities = 5人<ref name="テレ朝2016">{{Cite web |url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000090784.html |title=建物密集地帯、強風 “過去の大火”に共通点 |publisher=[[朝日新聞社]] |author=[[テレビ朝日]] |date=2016年12月23日 |accessdate=2019年8月21日 }}</ref>
|fatalities = 5人
|injuries = 170人
|perps =
|motive =
}}
'''魚津大火'''(うおづたいか)は[[1956年]]([[昭和]]31年)[[9月10日]]に[[富山県]][[魚津市]]で発生した大火災である{{R|魚津市2011}}
 
魚津市内では[[江戸時代]]から終戦直後にかけて、大規模な火災が数回発生したが{{Sfn|災害富山2017}}、ここでは前述の1956年大火について記述する。
 
== 状況 ==
9月10日19時45分、真成寺町の納屋から出火{{R|魚津市2011}}。20時に通報を受けた{{Efn|当時の魚津市内の電話は自動交換方式ではなく、通報者は電話交換手を通じて通報していた。}}。消防車が着いたころには、隣接する大劇映画館にまで延焼していて、手がつけられなくなっていた。当時の市街地は木造建築が多い上、道幅が狭く、思うように消火活動がはかどらず、さらに何度も風向が変わったため、たちまち神明商店街(現在の中央通り商店街)や市街地北部へ延焼し、あっというまに市街地北部を焼け野原にしてしまった。[[北日本放送]]ラジオも、大火の状況を[[ラジオ]]で放送していた。
[[画像:Emma 1956 track.png|thumb|200px|台風第12号の進路]]
当時は、九州西方海上を通過した大型[[:en:Typhoon Emma (1956)昭和31年台風第12号|台風12号]]が日本海を北東進しており、本州の日本海側では台風通過後の[[フェーン現象]]により乾燥した強い風が吹き続けていたので{{Sfn|災害富山2017|page=12}}、非常に火災が起こりやすい状況であった。以前にも、1954年9月の[[洞爺丸台風]]による[[北海道]][[岩内町]]([[岩内大火]])、1955年10月の台風22号による[[新潟市]]([[新潟大火 (1955年)|新潟大火]])、さらに1956年8月には台風9号による[[大館市]]など、台風に伴う大火災が頻発しており、この時も警戒されていたが、効無く大火となったものである。
 
その上、市街地内にある唯一の自然水利だった[[鴨川 (富山県)|鴨川]]が、上流の[[発電所]]の水路補修や水田への導水のため、水が殆どないという始末であった。当時の市内には157基(市街地で119基、焼失区域内に58基)の[[消火栓]]もあったが、火の回りがあまりにも強く避難を余儀なくされ、消火栓を開けっ放しにしてしまったため、消火栓の水圧が下がってしまい、効果的な消火はできなかった。
 
さらに各地で飛び火による火災も発生している{{Efn|(経田や[[黒部市]]生地にまで飛び火したとも言われているが、いずれも放火の可能性が高い。}}
 
この大火により、富山県は[[災害救助法]]を発動し救助にあたり{{Sfn|災害富山2017|page=13}}、周辺市町村から消防車100台が駆けつけ([[新潟県]][[糸魚川市|糸魚川]]からやってきた消防車もあった)、金沢に駐屯していた[[自衛隊]]も出動する事態となった。
 
11日午前2時10分ごろに鎮火。魚津市史によれば焼失戸数15831,583戸、罹災者72197,219人、死者5名、負傷者170名(うち重傷者5名)、被害総額75億円という魚津市の火災史上最悪の火災被害となった{{Sfn|災害富山2017|page=13}}
 
出火の原因は、放火、火の不始末、自然発火などいろいろな説があるが、結局、現在もはっきりとした原因がわかっていない<ref>『魚津大火復興50周年記念誌 魚津大火の記録』(平成18年([[2006年]])[[9月9日]]、魚津市発行)33~35ページ</ref>。
 
鎮火後、魚津市は国および県の支援を受けつつ火災復興計画として不燃都市を目指し、6年をかけて土地区画整理事業による大型道路、下水道事業、公園・墓地の造成などを遂行し、近代都市として生まれ変わった{{Sfn|災害富山2017|page=13}}。
 
== 火元 ==
100 ⟶ 102行目:
== 復興状況 ==
大火後の都市計画により、中央通り商店街、真成寺町商店街(魚津銀座)は鉄筋コンクリートの近代的な商店(いわゆる『防火建築帯』)が建ち並ぶようになり([[1959年]]に完成)、市街地を貫く幹線道路も整備され、近代的都市に生まれ変わった。[[1962年]]にすべての復興事業が完成した。また、[[1958年]]に富山県で[[国民体育大会|国体]]が開催された際、[[昭和天皇]]、[[香淳皇后]]が村木小学校屋上から火災復興状況を見学した<ref>『魚津大火復興50周年記念誌 魚津大火の記録』(平成18年([[2006年]])[[9月9日]]、魚津市発行)139ページ</ref>。
 
== 関連資料 ==
*『魚津大火復興50周年記念誌 魚津大火の記録』(平成18年([[2006年]])[[9月9日]]、魚津市発行)
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
; 脚注
{{notelist}}
; 出典
{{reflist}}
 
== 関連資料 ==
*『魚津大火復興50周年記念誌 魚津大火の記録』(平成18年([[2006年]])[[9月9日]]、魚津市発行)
 
== 参考文献 ==
* {{Cite web |url=http://www.pref.toyama.jp/branches/1147/H29kikaku.pdf |title=災害にみる富山 |publisher=[[富山県]] |author=富山県公文書館 |date=2017年 |accessdate=2019年8月21日 |format=PDF |ref={{SfnRef|災害富山2017}} }}
 
== 関連項目 ==
*[[火災の年表]]
*[[糸魚川市大規模火災]] - 魚津大火と同様、フェーン現象によって被害が拡大した。
*[[魚津神社]] - 大火で焼失した魚津市内5社を合祀し[[神明社]]を元に再興された。
 
== 外部リンク ==
* {{youtube|KV67E3nFONU|[昭和31年9月] No.KG-0072「魚津大火」}} - [[中日映画社]]
 
{{DEFAULTSORT:うおつたいか}}