「桂園時代」の版間の差分

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[[1911年]](明治44年)[[1月29日]]、当時の桂首相が政友会議員と会合した際に、「情意投合し、協同一致して、以て憲政の美果を収むる」と述べた。この時、桂が述べた'''情意投合'''(じょういとうごう)という語は、官僚・軍部勢力と政友会が暗黙のうちに意思疎通を図って政権運営に協力していくという桂園時代の政治体制を意味する言葉として、当時広く用いられた。両者の関係は日露戦争中の[[1904年]](明治37年)12月頃から提携が模索され、戦争終結後の[[1906年]](明治39年)1月に桂は西園寺を後継首相として退陣したことから本格化し、[[1912年]](大正元年)12月に[[二個師団増設問題]]で西園寺・政友会と桂・軍部が対立して[[第2次西園寺内閣]]が崩壊するまで続いた<ref>[[鳥海靖]]「情意投合」『国史大辞典 7』(1986)</ref>。
 
桂園時代は、[[日英同盟]]の締結から[[日露戦争]]の勝利、[[韓国併合]]など日本の国際的地位が著しく向上し、陸奥宗光や[[小村寿太郎]]らの努力によって[[条約改正]]を達成し、いっぽうでまた、[[重工業]]の発展のめざましい時期にあたっていた。一方で[[労働問題]]や[[公害問題]]など従来みられなかった問題もあらわれた。日本の国際的地位向上に尽くした桂に対し、陸奥の遺志を継いで原を育てた西園寺は来るべき「[[大正デモクラシー]]」に道にひらいたといえる<ref name=okazaki27/>。
 
== 特質 ==