「甲斐親直」の版間の差分

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宗運は、外には[[大友氏]]に主従し、肥後では[[相良氏]]と[[名和氏]]との同盟を維持することで阿蘇氏の存続を保っていた。天文15年([[1551年]])、前年に家督を継いだ[[大友義鎮]]が肥後の鎮定のために出兵した。阿蘇氏はこれに従い、大将[[佐伯惟教]]のもとに宗運を案内として派遣した。惟教は[[菊池義武]]派の[[合志隆重]]が寄る[[竹迫城]]を攻撃したが、城は落とせず、人質を出すということで講和して退いた。
 
[[永禄]]5年([[1562年]])頃より、島津氏が肥後国に伸張し、しばしば相良氏と争う。[[天正]]6年([[1578年]])、大友氏が[[耳川の戦い]]で島津氏に敗れて肥後への影響力が低下すると、肥後の国人衆の多くは島津氏や[[龍造寺氏]]についたが、宗運は大友氏との同盟を頑なに維持しようとしたが、弱体化した阿蘇氏の家中では動揺があった。
 
天正8年([[1580年]])3月、龍造寺氏に従属した[[隈部親永]]、[[合志親為]]、[[河尻氏]]、[[鹿子木氏]]と、島津氏に従属した[[名和顕孝]]、[[城親賢]]による肥後国人衆の連合軍が、阿蘇氏打倒の兵を挙げた。宗運は嫡男[[甲斐親英|親英(宗立)]]と兵8,000を率いて迎え撃ち、[[白川 (熊本県)|白川]]且過瀬を挟んで対陣。[[間者]]の報告によって、降雨により油断した隈部勢が酒盛りをしていた事を知ると、翌日未明に川を渡河して急襲。隈部勢は大混乱に陥り、敗走させられている。この功を賞して[[大友義統]]は飽田郡池上村を宗運に与えた。([[且過瀬の戦い]])