削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
m →‎生涯: 内部リンク追加
60行目:
[[1879年]](明治12年)3月には[[東京高等師範学校|東京師範学校]](現在の[[筑波大学]])の校長となり、[[音楽取調掛]]に任命されるとメーソンを招く。来日したメーソンと協力して[[西洋音楽]]を日本へ移植し、『[[小学唱歌集|小學唱歌集]]』を編纂。[[田中不二麿]]が創設した[[体操伝習所]]の主幹に命じられる。[[1886年]](明治19年)3月、文部省編輯局長に就任。[[1888年]](明治21年)には[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]](現在の[[東京芸術大学]][[音楽学部]])、[[東京盲唖学校]](現在の[[筑波大学附属視覚特別支援学校]])の校長となり、国家教育社を創設して忠君愛国主義の[[国家教育]]を主張、[[教育勅語]]の普及にも努める。
 
[[内閣]]制度が発足し、[[1885年]](明治18年)に[[森有礼]]が文部大臣に就任すると、[[教科書]]の編纂などに務める。[[1890年]](明治23年)に[[国立教育社]]を組織して国家主義教育の実施を唱導し、翌年に文部省を非職となってからは更に[[国立教育運動]]に力を注いだ。その後、[[1892年]](明治25年)8月に[[国立教育期成同盟]]を結成して小学校教育費国庫補助運動を開始する。[[1894年]](明治27年)の[[日清戦争]]後に日本が[[台湾]]を領有すると、台湾へ渡り[[台湾総督府民政局]][[台湾総督府文教局|学務部長]]心得に就任、統治教育の先頭に立っている。[[1895年]](明治28年)6月に、[[台北]]北部の[[芝山巌]](しざんがん)に小学校「[[芝山巌学堂]]」を設立。翌[[1896年]](明治29年)1月、伊沢が帰国中に、日本に抵抗する武装勢力に同校が襲撃され、6名の教員が殺害される事件が発生した([[六氏先生#芝山巌事件|芝山巌事件]])。
 
[[1897年]](明治30年)には[[貴族院 (日本)#勅選議員|貴族院勅選議員]]。晩年は[[高等教育会議]]議員を務めたほか、吃音矯正事業に務め、1903年に[[楽石社]]を創設。1917年、[[脳出血]]のため67歳で死去<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)3頁</ref>。