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[[1880年]](明治13年)[[12月5日]]に[[宮城県]][[志田郡]]桑折村(現・大崎市三本木桑折)にて父・保治、母・キンの長女として生まれる<ref name="jwcpe"/>{{sfn|西村|1983|pp=7-9}}。三本木は豊かな自然に囲まれた山あいの里であり、トクヨはどんな花の名所よりも美しいと讃える歌を残している{{sfn|西村|1983|p=13}}。[[1887年]](明治20年)、父の赴任地・[[松山町 (宮城県)|松山]]の松山尋常高等小学校(現・大崎市立松山小学校)に入学するが、間もなく父の転勤により三本木尋常高等小学校(現・大崎市立三本木小学校)に転校する{{sfn|西村|1983|p=13}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=14}}。三本木小では[[尋常科]]4年・[[高等科]]4年の計8年間学び、成績は普通であったが、「女子には高度な[[学問]]は不要」と考える当時の風潮{{#tag:ref|三本木小高等科の同級生は7、8人しかおらず、女子児童はトクヨだけであった{{sfn|西村|1983|p=14}}。|group="注"}}からすると、高等科をきっちりと卒業させた二階堂家は教育熱心であったことが窺える{{sfn|西村|1983|p=13}}。高等科4年生([[1894年]]=明治27年)の[[夏休み]]に叔父の佐藤文之進([[仙台市立立町小学校]]教師)から『[[日本外史]]』を習ったことで学問に目覚め{{sfn|西村|1983|pp=14-15}}、文学少女に成長した<ref name="jwcpe"/>。なお、小学校時代の8年間、トクヨは[[体操]]([[体育]])の授業を受けたことがなかった{{sfn|西村|1983|p=37}}。
 
[[1895年]](明治28年)に三本木小高等科を卒業し、予備講習会{{#tag:ref|郡の視学が教師となって開いていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=18}}。講習会からの帰り道は暗くなったので、用心のためトクヨは小刀を懐に忍ばせ、途中まで弟の清寿が迎えに行っていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=18-19}}。|group="注"}}を経て、同年[[11月10日]]に[[尋常小学校]]本科准教員の免許を取得する{{sfn|西村|1983|pp=15-16}}。地元の三本木小学校に就職し、坂本分教場で准教員となった{{sfn|西村|1983|p=16}}。坂本分教場では老教師が教えていたため、「[[鬼ごっこ]]をしましょう」と誘う15歳の「二階堂先生」の出現に児童は驚いた{{sfn|西村|1983|p=16}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=19}}。月給は1円50銭と新米教師の相場と同等で、初任給を神棚に祀った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=19}}。

分教場での教師生活を続けるうちに更に上級学校へ行って学問を身に付けたいという思いが募ったが、[[宮城師範学校|宮城県尋常師範学校]](宮城師範、現・[[宮城教育大学]])は女子部を廃止しており、トクヨは進学ができなかった{{sfn|西村|1983|pp=16-19}}。しかしトクヨは諦めず、全く縁のない[[福島民報]]に手紙を送って[[福島師範学校|福島県尋常師範学校]](福島師範、現・[[福島大学]]人文社会学群)への入学の斡旋を依頼した{{sfn|西村|1983|pp=19-20}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=20-21}}。福島師範には[[福島県]]民でないと入学できなかったことから、[[戸籍]]上[[養子縁組]]すれば面倒を見るという返事を受け取ったトクヨは、これを受諾して[[1896年]](明治29年)3月に福島民報の[[社長]]・[[小笠原貞信 (政治家)|小笠原貞信]]の養女となり、小笠原トクヨを名乗った{{sfn|西村|1983|pp=20-21}}。こうして同年4月に福島師範へ入学、[[1899年]](明治32年)3月に[[高等小学校]]本科正教員の資格を得て卒業{{#tag:ref|在学中に校名変更があり、卒業時の校名は福島県師範学校であった{{sfn|西村|1983|p=22}}。|group="注"}}した{{sfn|西村|1983|p=22}}。福島師範では体操の授業があり、トクヨはほぼ休まず出席していたが、面白みに欠けるものだったため、心ここにあらずという状態で臨み、「時間の無駄だ」と不満を漏らしていた{{sfn|西村|1981|p=155}}。この時トクヨが学んだのは、すでに魅力を失っていた普通体操であり、体操が他の教科よりも1段低く見られていたことも手伝って、トクヨはより一層つまらなく感じたのであった{{sfn|西村|1981|p=156}}。

成績優秀で[[福島大学附属小学校|附属小学校]]の[[訓導]]に就くことを求められるも固辞し{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=27}}、[[安達郡]][[油井村]]の油井尋常高等小学校(現・[[二本松市立油井小学校]])に赴任し、訓導として尋常科2年生の[[学級担任|担任]]になった{{sfn|西村|1983|pp=23-24}}。担任クラスには長沼ミツという児童がおり、その姉で高等科3年生の智恵子とも親しくなった{{sfn|西村|1983|p=24}}。智恵子とは、後に[[高村光太郎]]の妻になる[[高村智恵子]]のことであり、智恵子はトクヨに懐いていた{{sfn|西村|1983|p=24}}。
 
1900年(明治33年)4月、油井小を休職し、[[東京女子高等師範学校|女子高等師範学校]](女高師、現・[[お茶の水女子大学]])文科に入学する{{sfn|西村|1983|p=27}}。当時の女高師は[[高嶺秀夫]]が校長を務め、[[和歌]]の[[尾上柴舟]]、体操の[[坪井玄道]]をはじめ、[[安井てつ]]{{#tag:ref|安井は[[クリスチャン]]であり、トクヨは安井の下で[[聖書]]の勉強をし、『[[ヨブ記]]』を英語で読みこなすことができた{{sfn|穴水|2001|p=50}}。この経験が金沢での宣教師との接触につながり、体操教師トクヨの誕生に至るのであった{{sfn|穴水|2001|pp=49-51}}。|group="注"}}・[[後閑菊野]]らの授業を受けた{{sfn|西村|1983|p=29}}。トクヨは特に尾上柴舟の授業に魅了され、自作の歌を褒められて「小柴舟」の名をもらうほどであった{{sfn|西村|1983|pp=29-30}}。一方で体操の授業には全く関心がなく、欠課や見学など何とか授業に出ないようにしていた{{sfn|西村|1983|p=30}}。
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女高師の卒業後は[[教師]]となり、最初の赴任先は石川県立高等女学校(石川高女、現・[[石川県立金沢二水高等学校]])であった{{sfn|西村|1983|p=36}}。赴任前に「主として体操科を受け持ってほしい」という私信を受け取っていたが、トクヨは何かの間違いだろうと思い、最初の校長{{#tag:ref|当時の校長は[[体操伝習所]]の卒業生である土師雙他郎(はじ そうたろう、1853 - 1938)であった{{sfn|穴水|2001|p=41, 43}}。土師は体育を重視しており、トクヨの赴任前年に体操科の中心を担った高桑たまが病死したため、トクヨに高桑と同様の役回りを期待していた{{sfn|穴水|2001|pp=44-45}}。|group="注"}}からの言葉でそれが事実だと知ると絶句した{{sfn|西村|1983|pp=36-38}}。本業の国語の教師は十分いる一方、体操の免許を持った教師は不足していたから{{#tag:ref|実際には国語の担当教師は2人しかおらず、土師校長がトクヨを納得させるために使った方便であったと考えられる{{sfn|穴水|2001|p=46}}。|group="注"}}であった{{sfn|西村|1983|p=36}}。体操のことを「義理にもおもしろいとは云えぬ代物」、「怒鳴られて馬鹿馬鹿しい」、「およそ之れ程下らないものは天下にあるまい」と酷評していたトクヨにとって体操教師を命じられたことは不本意であるばかりでなく、大恥辱である、世間に対して面目を失う{{#tag:ref|トクヨが特別体操を卑下していたというわけでなく、当時の日本社会が体操教師を軽視する傾向があった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=49}}。|group="注"}}、とまで思っていた{{sfn|西村|1983|pp=39-40}}。しかし、女高師の卒業生は5年間任地で教職を全うする義務を負っていたこと、女高師時代のジンクスから翌[[1905年]](明治38年)の春に自分は死ぬのだろうと思っていたことで、決死の覚悟で体操を教えることにした{{sfn|西村|1983|p=40}}。最初は週13時間の授業に身も心も疲弊したが、数か月すると自身の体調が良くなっている{{#tag:ref|この文章の元になっているのは、イギリス留学から帰国した後のトクヨが自身の転換点として言及したものである{{sfn|穴水|2001|p=15}}。文学好きのトクヨは悲劇のヒロインに自己同化する傾向があり、誇張された表現とみるべきである{{sfn|穴水|2001|pp=15-16}}。周囲の人からは金沢で初めて洋装した、純白の体操着を身に付けた颯爽とした印象の人だと見られており、身も心も病んでいるようには見えていなかった{{sfn|穴水|2001|p=16}}。|group="注"}}ことを発見し、夏には[[井口阿くり]]{{#tag:ref|井口は1903年(明治36年)に女高師教授に着任したので、トクヨが4年生の時と重なっているが、井口は国語体操専修科を主に担当したため、文科のトクヨと接点はなかった{{sfn|西村|1983|p=38}}。|group="注"}}が講師を務める3週間の体操講習会を受講し、スウェーデン体操を学んだ{{sfn|西村|1983|pp=41-42}}。
 
井口の講習を受けたトクヨは素人では到底教えられないと痛感し、体操を学びたいと思うようになった{{sfn|西村|1983|p=42}}。幸運にも、体操専門学校を卒業した[[カナダ人]][[宣教師]]のフランシス・ケイト・モルガン{{sfn|穴水|2001|p=55}}(ミス・モルガン)が[[金沢市]]に[[キリスト教]]を布教しに来ていたため、トクヨは1日おきに30分の個人レッスンをモルガンの家の庭で受け始めた{{sfn|西村|1983|pp=42-43}}。モルガンの教える体操は、スウェーデン体操にドイツ体操を混合した独自のもので、指導のうまさと相まって、トクヨはどんどん体操にのめり込んでいった{{sfn|西村|1983|pp=43-44}}。トクヨが習った体操はさまざまな体操器具を使うものであったが、器具が整わなくてもできるよう、[[跳び箱]]の代わりに[[トロリーバッグ|トランク]]を、[[平均台]]の代わりに[[ベッド]]2台の間に渡した板を、水平棒の代わりに柱と柱の間に張った[[縄]]を、肋木の代わりに[[本棚]]を活用する方法{{#tag:ref|こうした器具の応用は体操専門学校で教わるものではなく、体操から遠ざかっている間にモルガンが身に付けた見聞や経験を生かしたものだと考えられる{{sfn|穴水|2001|p=59}}。|group="注"}}をモルガンは伝授した{{sfn|西村|1983|p=43}}。ついには石川高女の全生徒を対象に週28時間もの体操の授業を受け持つ{{#tag:ref|本業の[[国語]]でも50人の作文指導を行っている{{sfn|西村|1983|p=45}}。|group="注"}}に至り、[[石川県]]の郡部を回って小学校教師向けに体操の実地指導を行うようになった{{sfn|西村|1983|pp=44-45}}。この頃の教え子に時の[[石川県知事]]・[[村上義雄]]の娘がおり、父娘ともどもトクヨの体操に魅了され{{#tag:ref|トクヨが体操指導をする前に石川高女で行われていた体操は、校内に設置された[[遊動円木]]や[[ブランコ]]を使うもの、[[鉄亜鈴|アレイ]]や[[棍棒]]などの手具を使うもの、[[テニス]]であった{{sfn|穴水|2001|pp=43-44}}。スウェーデン体操は当時日本に入ってきたばかりであり、最新の体操を教え、洋服を着こなす若いトクヨ先生は生徒の憧れであった{{sfn|穴水|2001|p=16, 46}}。|group="注"}}、知事の後ろ盾を得て[[運動会]]ではプロの[[楽隊]]を入れて体操を行うという企画を行ったり、生徒を男役と女役に分けて[[カドリーユ]]を踊らせたりした{{sfn|西村|1983|p=47}}。この運動会では、入場券を得られなかった[[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]](現・[[金沢大学]])の学生が塀を乗り越えて乱入し、[[警察官]]が監視に当たるほどの大変な評判{{#tag:ref|石川高女の運動会を「金沢名物」にしたのはトクヨの功績である、と語る当時の生徒は多いものの、実際にはトクヨ赴任の前年の運動会に2,500人が観覧に訪れたという記録があり、石川高女の伝統にトクヨが上乗せしたものと言える{{sfn|穴水|2001|pp=46-47}}。|group="注"}}を呼んだ{{sfn|西村|1983|p=47}}。
 
[[1907年]](明治40年)7月、トクヨは[[高知師範学校|高知県師範学校]](高知師範、現・[[高知大学]]教育学部)への出向を命じられた{{sfn|西村|1983|p=50}}。しかし[[高知市]]に来てすぐに[[マラリア]]に感染し、入院を余儀なくされた{{sfn|西村|1983|p=50}}。教諭兼舎監{{#tag:ref|舎監として、夜中に高知師範女子[[寄宿舎]]に侵入した[[泥棒]]を[[薙刀]]で追い払った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=54}}。トクヨに[[武士]]の血が流れていることを示すエピソードである{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=54}}。|group="注"}}に着任し、歴史1時間、体操18時間{{#tag:ref|本格的に体操教師になったトクヨに弟の清寿は「物好きにもほどがある」と自分の思いを伝えたが、トクヨは全く意に介さなかった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=49}}。|group="注"}}を受け持った{{sfn|西村|1983|p=50}}。体操の授業中、生徒を木陰で休ませている時に、[[ウィリアム・シェイクスピア]]の[[戯曲]]を語り生徒を喜ばせた、という逸話が残っている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。[[高知県]]でもトクヨは体操講習会を開き、その模様は土陽新聞(現・[[高知新聞]])に取り上げられた{{sfn|西村|1983|pp=51-52}}。この頃トクヨは、自身がスウェーデン体操を教えているつもりであったが、実際には金沢では[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]、高知では[[歩兵第44連隊]]で行われていた軍隊式訓練を見よう見まねで教えていたのであった{{sfn|西村|1983|pp=52-53}}。軍人からは「女軍の一隊だ」などと言われたことに当時のトクヨは得意げだったが、後に振り返って「之れ等を思へば総べて漸死の種なり」と綴っている{{sfn|西村|1983|pp=52-53}}。[[1909年]](明治42年)[[7月31日]]、トクヨは二階堂姓に戻った{{sfn|西村|1983|p=21}}。[[1910年]](明治43年)末、トクヨは母校の東京女子高等師範学校{{#tag:ref|女子高等師範学校から改称していた。|group="注"}}(東京女高師)の体操科研究生になることを願い出た{{sfn|西村|1983|p=53}}。この願い出は後に取り下げるが、次には宮城師範への転任の話が舞い込み、更に母校・東京女高師からは助手就任の勧めが来て、また別の学校からも就任依頼が届いた{{sfn|西村|1983|pp=53-54}}。トクヨはこの中から東京女高師の職を選び、高知師範を辞して{{sfn|西村|1983|p=54}}[[1911年]](明治44年)春に東京女高師[[助教授]]に着任した{{sfn|穴水|2001|p=16}}。トクヨはこの時30歳で、異例の抜擢となった{{sfn|穴水|2001|p=16}}{{sfn|西村|1983|p=2}}。
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東京女高師での仕事は、6時間の授業と井口阿くり・[[永井道明]]両教授の補佐であった{{sfn|西村|1983|p=54}}。ところが井口は同年7月に藤田積造と結婚して退職した{{#tag:ref|井口の退職は、文科出身ながら体育に一生を捧げようとしているトクヨの熱意に打たれた井口が、自らの後任とすべく引退したという説がある{{sfn|西村|1983|p=54}}。井口は退職時に「其筋へも学校へもあなたを推薦して行きますから」とトクヨに声をかけている{{sfn|西村|1983|p=54}}。|group="注"}}ため、トクヨは井口の後任として女子体育の指導者の重責を負うことになった{{sfn|西村|1983|p=54}}。体操を専攻した者ではないのに、体操界の権威になろうとしていたトクヨは同僚4人から妬まれ、家族宛ての手紙で「たかがウジ虫メラ!」とののしっている{{sfn|穴水|2001|p=82}}。
 
=== 足掛四年の英国留学(1912-1915) ===
[[1912年]](大正元年)[[10月1日]]、トクヨは体操研究のため2年間のイギリス留学を命じられた{{sfn|西村|1983|p=3}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。留学を推薦したのは上司の永井道明であり、永井は女子体育の担い手としてトクヨに期待していた{{sfn|西村|1983|p=3}}。[[11月20日]]、[[曇り]]空の下で永井道明、安井てつ、長沼智恵子(後に高村姓となる)、[[高村光太郎]]ら10人が見送りに駆けつけ、横浜港から旅立った{{sfn|西村|1983|p=1}}。イギリスに派遣された日本女性の体育留学生は井口阿くり以来2人目であった{{sfn|曽我・平工・中村|2015|p=1997}}。
 
[[1913年]](大正13年)[[1月15日]]、{{仮リンク|ロイヤルアルバートドック|en|Royal Albert Dock}}に入港しイギリスに到着するも、予定より1日早く着いたため迎えの人が来ておらず、船中でもう一夜を明かした{{sfn|西村|1983|pp=4-5}}。翌1月16日、迎えは来たものの、その人は留学先のキングスフィールド体操専門学校(現・{{仮リンク|グリニッジ大学|en|University of Greenwich}})の場所を知らず、雨の降る中ようやく夕方に学校に到着し、入学手続きを行った{{sfn|西村|1983|p=5}}。学校側は「[[アシスタント・プロフェッサー]]が留学してくる」と聞いて身構えたが、いざトクヨに試験を課すと何も知らないことが判明し、トクヨは「一体まあ、何をあなたは教えていました?」と教師一同から問われてしまった{{sfn|西村|1983|pp=83-85}}。これに対して「スウェーデン体操を教えていた」とトクヨはすまして答えたが、その内容{{#tag:ref|脚・上肢・頭の運動、平均・跳躍・躯幹の諸運動、懸垂・胸張りなどとトクヨは答えた{{sfn|西村|1983|p=78}}。当時の日本では、[[猫背]]矯正のために胸を張る動作を重視し、しばしば極端に胸を張らせた{{sfn|西村|1983|p=85}}。|group="注"}}を話すと「スウェーデン式教育体操の一部をやっているんですね」と教師から言われ、自分が教えていたものはスウェーデン体操の一部にすぎないことを知った。そんな中で唯一、「家庭競技」だけは「興味ある室内ゲームだ」と高評価を得た{{sfn|西村|1983|p=85}}。トクヨが披露したのは羅漢遊び(各人が違った身振りをする<ref>{{cite web|url=http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000013107|title=「羅漢さん」という遊びのル-ツについて知りたい。|author=[[東京都立中央図書館]]|work=[[レファレンス協同データベース]]|date=2007-03-06|accessdate=2018-08-21}}</ref>)、[[葛の葉|篠田の森の狐つり]](わらべ歌<ref>{{cite web|url=http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000083210|title=京都のわらべうたと思われますが、みかんつりのときうたわれたわらべうたで…|author=[[大阪府立中央図書館]]|work=レファレンス協同データベース|date=2011-03-27|accessdate=2018-08-21}}</ref>)、鼻々遊び(手遊び歌<ref>{{cite web|url=https://www.natsume.co.jp/books/1094|title=保育で役立つ! 0〜5歳児の手あそび・うたあそび|author=阿部直美|publisher=[[ナツメ社]]|accessdate=2018-08-21}}</ref>)、[[さよなら三角またきて四角|はげ頭]]([[言葉遊び]]<ref>{{cite web|url=http://furiya-music-material.miyakyo-u.ac.jp/multicul/aizu/sayonara/index.html|title=1.さよなら三角 またきて四角|date=2014-06-24|publisher=[[降矢美彌子]]研究室|work=会津のわらべうた|accessdate=2019-08-21}}</ref>)などであった{{sfn|西村|1983|p=85}}。
 
キングスフィールド体操専門学校の授業は理論と実科に分かれ、理論では[[生理学]]・[[解剖学]]・[[衛生学]]など、実科では教育体操・医療体操・[[舞踊]]・[[競技]]などを学び、理論と実科にまたがる「教授法」の科目もあった{{sfn|西村|1983|p=89}}。最初は何も知らないと驚いていた教師陣も、日々急速に成長していくトクヨに「天才だ」と賛辞を贈るようになった{{sfn|西村|1983|pp=92-93}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。トクヨが最も影響を受けたのは、校長の[[マルチナ・バーグマン=オスターバーグ]]であった{{sfn|穴水|2001|pp=17-18}}。学校の長期休暇中は、[[ロンドン]]市内の女子体操学校を参観し、[[チェシャー|チェシャー州]]{{仮リンク|オルトリンガム|en|Altrincham}}の[[夏季学校]]での[[水泳]]練習、ロンドンの舞踊塾での[[ダンス]]練習に励んだ{{sfn|西村|1983|pp=94-98}}。特に水泳は苦手で最も苦しんだが、1か月後には一通りの型を習得し{{#tag:ref|水に入っているのは1日1回30分までという規則を破って3時間練習したり、1日2回入水したりして猛練習した成果である{{sfn|西村|1983|p=95}}。これを知った教師は「そんな無理をするなら証明書はやらない」と激怒したが、限られた時間内で水泳の実力を付けたかったトクヨにとって証明書の取得は重要なことではなく、ついに教師側が折れてトクヨは猛練習を認められた{{sfn|西村|1983|p=95}}。|group="注"}}学年1位の成績を得た{{sfn|西村|1983|p=95}}。
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[[1926年]](大正15年)[[3月24日]]{{sfn|西村|1983|p=226}}、日本女子体育専門学校(体専)に昇格・改称した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった{{sfn|西村|1983|p=227, 230}}。ところが定員を150人に増やしたところ、開校初年は約130人、2年目は約70人と[[定員割れ]]してしまった{{sfn|西村|1983|p=229}}。その理由を資格が取れないからだと考え、[[1928年]](昭和3年)[[6月4日]]、体専は中等教員無試験検定資格を取得し、学生は卒業と同時に体操科の中等教員免許が取得できるようになった{{sfn|西村|1983|p=229}}。しかしその後も学生数は回復せず、1学年40 - 50人台の状態が続いた{{sfn|穴水|2001|p=157}}。
 
この頃のトクヨは忙しさのあまり居留守を使ったり、黒髪を切り[[スキンヘッド|丸坊主]]になったりした{{#tag:ref|1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)頃から坊主頭だったという{{sfn|西村|1983|p=246}}。そこでトクヨは「桜菊[[尼]]」と自称するようになった{{sfn|西村|1983|p=222}}。|group="注"}}エピソードが関係者の間で知られている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。また震災の被害や学校移転で資金繰りに窮し、学生からも借金をする羽目になった{{sfn|西村|1983|pp=227-228}}。文部省が審査のために来校した時には、[[慶応義塾大学]]や東京女子体操音楽学校(現・[[東京女子体育短期大学]])から図書や備品を借りて審査をやり過ごした{{sfn|西村|1983|p=228}}。
 
[[ファイル:Physical Education Teachers of Tokyo Higher Normal School.png|thumb|右から順に今村嘉雄、野口源三郎、二宮文右衛門、浅川正一。この写真は1941年(昭和16年)の[[東京高等師範学校]](現・[[筑波大学]])の体育科教師陣であるが、浅川以外は二階堂体操塾・体専でも教師を務めた。]]
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トクヨがイギリスに出発した時には、道明は横浜港まで見送りに行った{{sfn|西村|1983|p=1}}。キングスフィールド体操専門学校でオスターバーグの教育を受けたトクヨは、オスターバーグの人格に接し、そこに送ってくれた道明に深く感謝し、トクヨの著書『足掛四年』にも道明への感謝の言葉が綴られている{{sfn|西村|1983|pp=107-108}}。オスターバーグは道明のことを覚えており、「ヤパニースボーイ{{#tag:ref|永井道明のことを「ヤパニースボーイ」と呼んでいた{{sfn|西村|1983|p=107}}。スウェーデン出身のオスターバーグは、[[スウェーデン語]]なまりの英語を話し、''“Japanese boy”''を「ヤパニースボーイ」と発音していた{{sfn|西村|1983|p=107}}。|group="注"}}が日本の体育界を支配しているんだから、誠に結構だ」とトクヨに言った{{sfn|西村|1983|p=107}}。またオスターバーグと道明は、トクヨ留学中に手紙でやり取りしていた{{sfn|西村|1983|p=108}}。
 
留学経験を胸に帰国したトクヨを待っていたのは、皮肉にも道明との対立であった{{sfn|西村|1983|p=108}}{{sfn|穴水|2001|p=19}}。道明はトクヨに、自身が骨を折って策定し、スウェーデン体操を軸とした『学校体操教授要目』を普及させてくれることを期待しており、実際トクヨもスウェーデン体操を学び、体操遊戯講習会の講師として日本中にスウェーデン体操を広めることに尽力した{{sfn|西村|1983|pp=180-183}}{{sfn|穴水|2001|pp=19-20}}。しかし、道明の言うスウェーデン体操はドリル中心の味気ない体操であり、トクヨが学んだオスターバーグ式の生き生きとした体操とは異なっていた{{sfn|西村|1983|p=183}}。道明の立場からすれば、自身が『学校体操教授要目』を普及させるために地方に出張している間に、トクヨが勝手にイギリス式の体操を教えているように見え、裏切られたという思いであった{{sfn|西村|1983|p=184}}。最初は小さなすれ違いから始まったが{{sfn|穴水|2001|p=19}}、ダンスに対する考え方や体操服の採用などトクヨと道明はことごとく衝突するようになり{{sfn|西村|1983|p=184}}、留学前から同僚に妬まれていたトクヨ{{sfn|穴水|2001|p=82}}は孤立無援となってしまった{{sfn|西村|1983|p=185}}。さらにトクヨのプライベートでは縁談の破談があり、精神的に動揺している状態であった{{sfn|穴水|2001|pp=19-20}}。
 
道明とトクヨの対立の諸点をまとめると次のようになる。
このような公私に渡る悩みを振り切ることで、トクヨは「女子体育の使徒」としての自覚を強めていき、東京女高師の職を捨て二階堂体操塾を設立するという決断に踏み切ることになった{{sfn|穴水|2001|pp=20-22}}。1922年(大正11年)、トクヨ41歳のことである{{sfn|穴水|2001|p=22}}。
{| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center"
|-
!事項!!永井道明!!二階堂トクヨ
|-
|rowspan="2"|立場{{sfn|西村|1983|pp=183-185}}||旧弊||新進
|-
|校内の主流派||校内で孤立
|-
|学校体操教授要目{{sfn|西村|1983|p=183}}||重視||軽視
|-
|rowspan="2"|スウェーデン体操{{sfn|西村|1983|p=183}}{{sfn|来頼|2007|p=378}}||リング主義||オスターバーグ式
|-
|形式的・画一的・ドリル的||変化自在・生き生き
|-
|ダンス{{sfn|西村|1981|pp=170-171}}|||ほぼ価値を認めない||授業で積極的に採用
|-
|体操服{{sfn|西村|1983|p=184}}||ブルマー||チュニック
|-
|教材{{#tag:ref|戸倉ハルが受講したもの{{sfn|桐生|1981|p=242}}。|group="注"}}||合理体操、跳び箱、平行棒、肋木、梯子||器械体操、ダンス、スウェーデン体操
|}
 
道明と対立に加え、プライベートでは縁談の破談があり、トクヨは精神的に動揺したが、こした公私に渡る悩みを振り切ることで、トクヨは「女子体育の使徒」としての自覚を強めていき、東京女高師の職を捨て二階堂体操塾を設立するという決断に踏み切ることになった{{sfn|穴水|2001|pp=2019-22}}。1922年(大正11年)、トクヨ41歳のことである{{sfn|穴水|2001|p=22}}。
 
対する道明は、[[1920年アントワープオリンピック]]に合わせて欧米への外遊に出かけ、帰国後は教授から講師に職階を落とし、1923年(大正12年)に東京女高師を退いた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|p=75, 93}}。兼務していた[[東京高等師範学校]](東京高師、現・[[筑波大学]])でも道明は派閥争いを抱えていた{{sfn|清水|1996|p=127}}が、道明は自叙伝に「数多の感想もあるが」と記すのみで、東京高師・女高師での対立について何も書き残しておらず、女高師の思い出話の中にトクヨを登場させていない{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=56-57}}。
 
道明とトクヨの両方から指導を受けた戸倉ハルは、両者に対して学生であるという態度を貫き、どちらにも義理を通した{{sfn|桐生|1981|p=245}}。戸倉は道明の学校体操教授要目の普及活動に帯同し、大日本体育同志会の会長である道明を守るように援助したことから「唯一の愛弟子」と見なされ{{sfn|桐生|1981|p=245}}、道明の自叙伝に追悼文を寄せた{{sfn|永井道明先生後援会|1988|pp=9-10}}。一方で、トクヨの2人の弟とともにトクヨの伝記の執筆に参加し{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=3}}、[[日本女子体育短期大学]]の教授に就任して日本女子体育大学の開設に尽力した{{sfn|桐生|1981|p=258}}。
 
==== マダム・オスターバーグ ====
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トクヨは「何一つ非の打ちどころの無い人物」と絹枝を手放しで絶賛し、体専に留めおきたいという思いが強かった{{sfn|勝場・村山|2013|p=30, 32}}。一方の絹枝は女子陸上競技のパイオニアとして更なる飛躍を目指し、トクヨの反対を振り切って[[大阪毎日新聞]]に入社した{{sfn|勝場・村山|2013|p=30, 32}}。絹枝が立て続けに大会に出場していた際には「こうした大会に出場することは大いに考えるべきこと」とトクヨはたしなめた{{sfn|勝場・村山|2013|p=64}}。
 
こうしてトクヨと絹枝は仲違いしてしまうが、その後和解したようで{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=143-144}}、[[1930年]](昭和5年)、国際女子競技大会への遠征費として金一封(1,000円)を絹枝に送った{{sfn|勝場・村山|2013|pp=64-65}}。[[1929年]](昭和4年)のトクヨの忠告は図らずも[[1931年]](昭和6年)に現実となり、絹枝は大阪帝国大学付属病院(現・[[大阪大学医学部附属病院]])に入院した{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。同年[[5月31日]]、トクヨは絹枝の見舞いに訪れ、やつれた絹枝を見たトクヨは涙を流した{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。絹枝も涙しつつ心配させまいと気丈に振る舞い、トクヨの差し入れである[[スイカ]]を2片食べた{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。しかし絹枝は回復せず、[[8月2日]]に24歳の若さでこの世を去った{{sfn|勝場・村山|2013|p=82}}。トクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」という言葉を『[[婦人公論]]』に寄せた{{sfn|勝場・村山|2013|p=87}}。またプラハに絹枝の碑が建立されることになった際、借金をしてまで寄付を行った{{sfn|穴水|2001|p=23}}。
 
=== 恋愛と縁談 ===
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=== トクヨと軍人 ===
体育の世界に入ったことにより、トクヨの人生は軍人との関係が深くなった{{sfn|西村|1983|pp=46, 246-248}}。金沢で第9師団に[[乗馬]]練習のため単身司令部に乗り込んだのが、記録に残る最初の軍人との関係である{{sfn|西村|1983|p=46}}。乗馬練習中に、将校が部下に号令をかけたがあまりうまくなく、トクヨが代わりに号令をかけたら兵隊は一糸乱れずに動いたというエピソードもある{{sfn|西村|1983|p=46}}。特に体専時代金沢や高知で[[陸軍戸山学校]]近く教官や青年将校、[[歩兵第1師団・連隊]]とかかわりが多かった{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}{{sfn|穴水|2001|p=127}}。体専に青年将校が来校した際には、授業訓練の様子中断させ眺め湯茶で軍隊式接待や生徒のダンス披露などで歓待したため、現場教師の不満の種となった{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}。トクヨの「わが身体操国に捧げる」という思いは、献身的な姿勢授業教え子に感動を与える一方で、その時々の政策に簡単に引っ張られてしまうという弱点を持っていた{{sfn|西村|1983|p=248}}。トクヨの人生の末期はまさに戦争に向かっている時代であり、国家主義・国粋主義的な思想を持った「軍国ばあさん」になっていき{{sfn|西村|1983|pp=24852-251}}、トクヨの死後の体専の学生は、「人生とは何ぞや…と考えるより先ず自分の心の雑草を抜く。」という言葉を残しており、トクヨの教えは[[思考停止]]装置になってしまった{{sfn|穴水|2001|p=2853}}。
 
特に体専時代は[[陸軍戸山学校]]の教官や青年将校、[[歩兵第1連隊]]とのかかわりが多かった{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}{{sfn|穴水|2001|p=127}}。体専に青年将校が来校した際には、授業を中断させて湯茶での接待や生徒のダンス披露などで歓待したため、現場教師の不満の種となった{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}。トクヨの「わが身を国に捧げる」という思いは、献身的な姿勢で教え子に感動を与える一方で、その時々の政策に簡単に引っ張られてしまうという弱点を持っていた{{sfn|西村|1983|p=248}}。トクヨの人生の末期はまさに戦争に向かっている時代であり、国家主義・国粋主義的な思想を持った「軍国ばあさん」になっていき{{sfn|西村|1983|pp=248-251}}、トクヨの死後の体専の学生は、「人生とは何ぞや…と考えるより先ず自分の心の雑草を抜く。」という言葉を残しており、トクヨの教えは[[思考停止]]装置になってしまった{{sfn|穴水|2001|p=28}}。
トクヨは高知時代に軍人と恋をし{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=52-53}}、教え子を軍人と結婚させたこともある{{sfn|穴水|2001|p=127}}。一方で、教え子の見合い相手の軍人に対し、「今に軍隊などなくなる時代が来る」と言ったこともあり、軍人に対する見方は首尾一貫したものではなかった{{sfn|穴水|2001|pp=127-128}}。教育体操の中に[[兵式体操]]が入り込んでくることには反対していた{{sfn|西村|1983|p=153}}。軍隊で行われる兵式体操の目的は号令による統一行動であり、教育体操の目的は個人としてあるいは団体としての日常的な動作を体得することであることから、目的が違うと考えたためである{{sfn|西村|1983|pp=153-155}}。
 
トクヨは高知時代に軍人と恋をし{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=52-53}}、教え子を軍人と結婚させたこともある{{sfn|穴水|2001|p=127}}。一方で、教え子の見合い相手の軍人に対し、「今に軍隊などなくなる時代が来る」と言ったこともあり、軍人に対する見方は首尾一貫したものではなかった{{sfn|穴水|2001|pp=127-128}}。人生の後半になるとトクヨは教育体操の中に[[兵式体操]]が入り込んでくることに反対していた{{sfn|西村|1983|p=153}}。軍隊で行われる兵式体操の目的は号令による統一行動であり、教育体操の目的は個人としてあるいは団体としての日常的な動作を体得することであることから、目的が違うと考えたためである{{sfn|西村|1983|pp=153-155}}。
 
=== トクヨと女子教育家 ===
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またある時に、トクヨは川村文子を訪ねて金の工面を依頼した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=137-138}}。川村もお金に苦労していたのでその旨を伝えて断るも、トクヨは川村の付けていた[[ダイヤモンド]]の[[指輪]]に気付いて、「私は恩給もつぎ込んで一文無しですが、そのダイヤは高価なものではありませんか」と食い下がった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=138}}。川村は「これは肌身離さずつけている記念のものでございますが、何ならこれを金にかえて御用立ていたしましょうか」と応じ、さすがのトクヨも、そこまでは求めていないと恐縮して帰った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=138}}。このエピソードは、トクヨの死後に川村がトクヨの末弟・真寿に語ったものである{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=138}}。
 
== 理論と業績 ==
=== 体育観 ===
トクヨの体育に対する考え方は、イギリス留学の前後で180度転換した{{sfn|西村|1983|p=143}}。
 
==== 留学以前 ====
留学前のトクヨは井口から学んだスウェーデン体操と勤務校の近くにあった師団・連隊で見た兵式体操を授業で行っていた{{sfn|西村|1983|p=142}}。トクヨは自身が教えている体操がスウェーデン体操だと思い込んでいたが、実際にはスウェーデン体操のうちの教育体操に相当する領域のみであり、しかも大部分はスウェーデン体操ではなく軍隊式訓練をまねたものであった{{sfn|西村|1983|pp=52-53, 142-144}}。また井口から習ったのはスウェーデン体操の型だけであり、その背後にある理論は学んでいなかった{{sfn|西村|1981|pp=165-166}}。井口の実践するスウェーデン体操が厳しかったこともあり、トクヨも体操とは厳しいものという認識を持っており、授業で教え子が泣くのは当たり前だと考えていた{{sfn|西村|1983|p=142}}。
 
油井小訓導時代に行った授業は、自分が嫌っていた「怒鳴られて馬鹿馬鹿しい」体操そのものであった{{sfn|西村|1983|p=39}}。北国の2月のある寒い日に、川から吹き付ける身を切るような風の中、屋根だけのある雨天体操場で、トクヨは児童をきれいに整列させた{{sfn|西村|1981|pp=155-156}}。少しでも列を乱そうものなら厳しく叱りつけ、続けて徒手体操をさせた{{sfn|西村|1981|pp=155-156}}。防寒が不十分な児童が多く、みな震えており、泣き出す者も現れた{{sfn|西村|1981|p=156}}。トクヨは「そんな弱虫ではいけません」と叱り、泣けば泣くほど児童に厳しく指導した{{sfn|西村|1981|p=156}}。
 
==== 留学以後 ====
留学以降のトクヨの体育観は「保護愛育的体育」に特徴づけられる{{sfn|西村|1981|p=156}}。保護愛育的体育とは、個人の体質・年齢・境遇に応じて、食物・衣服・睡眠・医薬を調整し、自然の[[欲求]]を満たし、衛生的にいたわることを重視した体育である{{sfn|西村|1983|p=146}}。基礎的・一般的な体育は保護愛育的体育を旨とし、一般人や子供には保護愛育的体育を施すことが重要であるとトクヨは強調した{{sfn|西村|1983|p=146}}。
 
年齢と行うべき体操の対応について、トクヨは下表のように主張している{{sfn|西村|1983|pp=146-147}}。下表の「鍛錬」とは、保護愛育的体育に上乗せして行うものであり、細心の注意と合理的な条件を持って行うべきと説いた{{sfn|西村|1983|p=146}}。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!年齢!!行うべき体操
|-
|幼年・児童||保護愛育的体操、鍛錬はごく初歩
|-
|14・15歳頃〜||一般的・鍛練的体操{{#tag:ref|女子は生理的変動の初期のみ、特別な加減を要する{{sfn|西村|1983|p=147}}。|group="注"}}
|-
|20歳前後||思い切った鍛練
|-
|24・25歳頃〜||思い切った鍛練を徐々に緩める
|-
|成人||保護的体操・趣味的体操
|-
|老人||自愛的体操
|}
 
保護愛育的体育とは言いながらも、トクヨの指導する体操は依然として厳しいものであった{{sfn|西村|1981|p=169}}。トクヨの授業を受けた戸倉ハルによると、特に徒手体操が厳しく、「半前半上屈臂」など独特の名前を付けた体操をさせたという{{sfn|西村|1981|p=169}}。
 
=== ダンスの採用 ===
ダンスそのものは、トクヨのイギリス留学前より日本の体操科の授業で取り入れられており、[[井口阿くり]]によって{{仮リンク|ファーストダンス|en|First dance}}や[[ポルカ]]セリーズなどが持ち込まれていた{{sfn|西村|1983|p=178}}。トクヨ自身、留学前の石川高女教師時代から、カドリールやレディポルカなどの[[ハイカラ]]なダンスを授業や運動会で実施していた{{sfn|西村|1983|p=47}}。留学中にはロンドンの舞踏塾に13回通塾して3人の教師から個人レッスンを受け、[[ホーンパイプ]]、スコッチ[[リール (ダンス)|リール]]、アイリッシュ[[ジグ (音楽)|ジグ]]、ウェルシュダンスなどの稽古に励んだほか、数校でイギリスの民族舞踊などを学んだ{{sfn|西村|1983|pp=96-102}}。
 
トクヨのダンスにおける功績は、ダンスの基本練習として身体練習・表現練習・リズム練習の3要素を初めて実践したことである{{sfn|西村|1983|p=176}}。ダンスのレパートリーは、トクヨ自身の創作ダンスや、学生が習ってきたものに手直しを加えたものをどんどん追加していき、1924年(大正13年)頃には50種類ほどになっていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=129}}。ファーストやカドリールといった西洋式のダンスのみならず、「[[雨降りお月さん]]」や「[[花嫁人形]]」といった日本の[[童謡]]を用いたもの、[[木曽節]]や[[佐渡おけさ]]といった各地の[[民謡]]を用いたものまで多様であった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=129-131}}。
 
== 顕彰 ==
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{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
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* {{cite book|和書|author=穴水恒雄|title=人として女として―二階堂トクヨの生き方―|publisher=不昧堂書店|date=2001-05-30|isbn=4-8293-0403-0|page=182|ref={{sfnref|穴水|2001}}}}
* {{cite book|和書|author=勝場勝子・村山茂代|title=二階堂を巣立った娘たち―戦前オリンピック選手編―|date=2013-04-18|publisher=不昧堂出版|isbn=978-4-8293-0498-3|page=171|ref={{sfnref|勝場・村山|2013}}}}
* {{cite book|和書|author=桐生敬子|chapter=学校ダンスの普及者 ●戸倉ハル●|title=近代日本女性体育史―女性体育のパイオニアたち―|publisher=日本体育社|date=1981-05-20|page=239-262|ref={{sfnref|桐生|1981}}}}{{全国書誌番号|82017419}}
* {{cite journal|和書|author=清水諭|date=1996-09|title=体操する身体―誰がモデルとなる身体を作ったのか/永井道明と嘉納治五郎の身体の格闘―|journal=年報筑波社会学|publisher=筑波社会学会|issue=8|page=119-150|naid=110000527968|ref={{sfnref|清水|1996}}}}
* {{cite journal|和書|author=曽我芳枝・平工志穂・中村有紀|title=女性におけるスポーツ・運動実践―東京女子大学の体育を中心として―|journal=東京女子大学紀要論集. 科学部門報告|publisher=東京女子大学論集編集委員会|issue=65|page=1987-1999|year=2015|naid=120006512580|url=http://opac.library.twcu.ac.jp/opac/repository/1/5803/SOGA_HIRAKU_NAKAMURA_20150315.pdf|ref={{sfnref|曽我・平工・中村|2015}}}}
* {{cite book|和書|author=永井道明先生後援会|title=遺稿 永井道明自叙伝|publisher=大空社|series=伝記叢書 36|date=1988-03-17|page=93|ref={{sfnref|永井道明先生後援会|1988}}}}{{全国書誌番号|88039498}}
* {{cite book|和書|author=二階堂清寿・戸倉ハル・二階堂真寿|title=二階堂トクヨ伝|publisher=不昧堂書店|date=1961-04-01|series=第4版|page=222|ref={{sfnref|二階堂・戸倉・二階堂|1961}}}}{{全国書誌番号|67005097}}
* {{cite book|和書|author=西村絢子|titlechapter=二階堂育に生涯をかけた操塾(日本性―子体育大学)の創設者 ●二階堂トクヨ●|title=近代日本女性体育史―女性体育のパイオニアたち|publisher=杏林書院日本体育社|date=19831981-0805-0120|page=266151-176|ref={{sfnref|西村|19831981}}}}{{全国書誌番号|8305097782017419}}
* {{cite book|和書|author=西村絢子|title=体育に生涯をかけた女性―二階堂トクヨ―|publisher=杏林書院|date=1983-08-01|page=266|ref={{sfnref|西村|1983}}}}{{全国書誌番号|83050977}}
* {{cite journal|和書|author=頼住一昭|date=2007-05|title=体育人と身体感 21 永井 道明(1868〜1950)|journal=体育の科学|publisher=杏林書院|volume=57|issue=5|page=377-381|naid=40015447887|ref={{sfnref|頼住|2007}}}}
 
== 関連項目 ==
* [[宮城県出身の人物一覧]]
 
== 外部リンク ==