「東洲斎写楽」の版間の差分

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Berlin1888 (会話 | 投稿記録)
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{{quotation|実際に『写楽』にあたってみると、そんな言葉はどこにも書かれていない。クルトは『写楽』以外にも『日本木版画史』(一九二五~二九年)など浮世絵に関する論文を多数発表している。おそらくそのどこかで、こうした趣旨の言葉を書いたものが、いつのまにやら『写楽』のなかの言葉として語られるようになったと推察するが、少なくともこうしたまことしやかな紹介のしかたでは、どこまで本当にクルトの『写楽』を吟味したのか、まことに覚束ない。私には、写楽論議の危うさがここに現れているように思えてならない。}}
 
中嶋修は「調べることができた中で」と断った上で「レンブラント、ベラスケス」という言葉が入った写楽論文の初出を『美術画報』大正9年(1920)六月号のとして
[[仲田勝之助]]「東洲斎写楽」とし(『美術画報』[[画報社]]、大正9年(1920)6月号)を挙げている<ref>{{Harvnb|中嶋修|2012|p=241}}</ref>{{Refnest|group=注|仲田勝之助論文「東洲斎写楽」(『美術画報』画報社、大正9年6月号)には「欧州の浮世絵愛好家に見出され、一躍レムブランドやベラスケスにさへ比肩すべき世界的肖像画家として認識」されるに至ったとあるだけで、出典は挙げていない。 }}。[[佐々木幹雄]]も、仲田勝之助の著書『写楽』(1925)で、仲田個人の見解としてレンブラントやベラスケスに比肩する世界的肖像画家として写楽を紹介したことが「クルトが認定した三大肖像画家」に改変されて一人歩きを始めてしまったと指摘している。<ref>佐々木幹雄『「写楽」を教えてくれたクルト-100年目の新事実-』 大好きドイツエッセイコンテスト2009優秀賞。</ref>。
 
美術編集者[[富田芳和]]は「クルトの『写楽』ではひとことも書かれていない文言が、日本人のだれかによって、クルトの写楽観を象徴する言葉としてつくり上げ」られたと論じている<ref>『プロジェクト写楽 新説 江戸のキャラクター・ビジネス』武田ランダムハウスジャパン,2011年</ref>。