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[[天明]]8年([[1788年]])、藩士が[[富士川]]、[[大井川]]、[[安倍川]]の修治を命じられると、藩命によって大坂の巨商から資金を借り入れ、事を弁じた。
 
[[寛政]]3年([[1791年]])に[[米沢藩]]主[[上杉治憲]](鷹山)により、[[隠居]]の身から中老に就任した[[莅戸善政]]は、寛政6年([[1794年]])に四郎三郎を酒田に訪ね、これから金穀を借り軍備を修め、田地の[[開拓]]などをすることができた。鷹山の治績がおおいに上ったのは、江戸の三谷、越後の渡辺に加えて、四郎三郎の献替が大きかったとされる。莅戸は、四郎三郎の死去のさいには弔文を送ってその死を悼んでいる。また、後に本間光暉の代になって庄内藩が幕命で石高が半分の長岡に国替えを命じられたさい([[三方領地替え]]。のちに撤回)、藩の移転費用をねん出するため本間家が他藩や商人に借金を申し入れたところ、足元を見られことごとく断られるなか[[米沢藩]]のみが旧恩に感じて融資をしてくれたため、「旧恩が報われた」として光暉を感激させている
 
寛政4年([[1792年]])、北海の警備のために大砲10門を献上し、海防に資した。