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[[1975年]](昭和50年)、[[横浜放送映画専門学院]](現:[[日本映画大学]])を開校し、[[校長]]・[[理事長]]を務め、[[三池崇史]]・[[細野辰興]]・[[金秀吉]]・[[佐々部清]]・[[本広克行]]・[[李相日]]・[[佐藤闘介]]などの映画監督、[[鄭義信]]などの脚本家、芥川賞作家の[[阿部和重]]、さらに、タレントの[[ウッチャンナンチャン]]、俳優の[[長谷川初範]]、[[隆大介]]などの人材を輩出した。
 
[[1979年]]に9年ぶりの劇映画となる『[[復讐するは我にあり]]』が公開。この作品の映画化をめぐっては、黒木和雄、深作欣二、藤田敏八らと映画化権取得をあらそった。同作品の成功により低迷期を脱し、映画監督として復活をとげる。今村はこの映画の主役で実在の殺人犯.榎津巌役を[[渥美清]]にオファーしていた{{要出典|date=2019年8月}}
 
『復讐するは我にあり』のヒットにより借金を返済して松竹も利益を上げたことで10年間温めていた企画で初の時代劇となる『[[ええじゃないか (映画)|ええじゃないか]]』を[[1981年]]に松竹と共同製作して公開。3億円のオープンセットなど莫大な予算を投じたが、不入りで内容的にも今村自身が失敗作と認める結果に終わる<ref>香取、2004年、pp.341-342</ref>。