「暴力団」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集
33行目:
元々「暴力団」という名称は、警察が名付けた名称であるが、[[第二次世界大戦]]後、を通す形で一般でもその名称で認知されるようになった<ref>{{Cite web |url=http://www.web-sanin.co.jp/gov/boutsui/mini01.htm |title=1) 暴力団 |accessdate=2015-11-05 |work=暴力団ミニ講座 |publisher=松江地区建設業暴力追放対策協議会}}</ref>。
 
[[江戸時代]]の[[町火消]]から始まったという説があり、[[祭|祭礼]]の周辺で商業活動を営む者を「[[的屋]]」(てきや)または「[[香具師]]」(やし)と呼び、[[丁半]]などの[[賭博|博打]]を生業とする者を「[[博徒]]」(ばくと)と呼んだ。江戸時代においては、これらの者達は一般社会の外の[[賤民]]([[アウトロー]]と同義)的身分とされていた。
 
[[明治|明治時代]]に入ってからは、新たに肉体労働組合も加わることになり、急速な発展と同時に膨大な労働力が必要となったことで、炭鉱や水運、港湾、大規模工事現場には、農村や漁村から屈強な男性達が集まってきた。これらの男性達の中から、力量ある男性が兄貴分として中心になり、「組」を作っていった。労働者同士による諍いも多く発生したが、警察の手が足りない状況であったため、いわゆる[[自警団]]的な役割を持った暴力団組織も結成されるようになっていった。
 
[[太平洋戦争]]終結直後は、日本が連合国に敗北し国土も焦土と化したことで物資が不足し[[闇市]]が栄えていくことになり、特に露店を本職としているテキ屋団体が勢力を増していった。また、敗戦による社会の荒廃により戦後の日本の治安は極めて正しかったその中で、新たに戦後の混乱の中で形成された「[[愚連]]」(ぐれんたい)などの不良集団から暴力団が誕生することもあった。
 
その後、日本の急速な経済復興に伴い[[沖仲仕|仲間]]、[[芸能]]興行など合法的な経済活動にのみ従事する「[[企業舎弟]](フロント企業)」も生まれた。現代の一般社会からは、的屋も博徒も同じ「暴力団」と見なされている。現代の暴力団は的屋の系譜を継ぐ団体(的屋系暴力団)、博徒の系譜を継ぐ団体(博徒系暴力団)の両方が存在するが、明確な区別は建前上でしかなく、様々な非合法活動を行っている。この当時の日本の暴力団は、戦後での大きな「貸し」から、公然と活動していることが多く、警察との裏取引いわゆる「お付き合い」)を行ったり、メディアに露出する傾向もあった。
 
[[1992年]]に[[暴力団対策法]]が施行され、暴力団は公然的活動がしづらくなり、堂々と組の看板を出して事務所を開くことが難しくなった。日常生活においても、暴力団関係者であるだけで金融機関から融資を受けることもできなくなり、2013年に発覚した[[みずほ銀行暴力団融資事件]]では、自動車を購入した暴力団員へのローンにかかわった[[みずほ銀行]]の会長や頭取らが退任してい<ref>{{Cite news |title=塚本みずほ銀会長辞任、佐藤頭取は報酬半年返上 |newspaper=ロイター |date=2013-10-28 |url=http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE99R06B20131028}}</ref>
 
== 組織 ==