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== 経歴 ==
実家は[[農家]]。五人兄弟の次男として生まれ、父親に育てられた。幼少期より農耕馬などに乗り馬に親しみ、中学時代は[[マラソン]]好きになったこともあったが、[[日本中央競馬会]]の騎手講習生募集の広告を見て、[[東京都|東京]]へ出たい一心で騎手を志す。中学卒業後の[[1959年]]に[[馬事公苑]]騎手養成長期課程へ入所し、修了後の[[1961年]]より騎手候補生として[[中山競馬場|中山]]・[[大久保房松]]厩舎に入門。[[1962年]][[3月]]に騎手デビュー。同期には[[中島啓之]]、[[梅内忍|榎屋忍]]、[[中神輝一郎]]がいる。初年度は8勝であったが、2年目の[[1963年]]には31勝と躍進。3年目の[[1964年]]に38勝を挙げて全国9位に入り、初めてベストテンにランクイン。同年の[[京王杯スプリングカップ|京王杯SH]]ではクリライトに騎乗し、[[保田隆芳]]・[[高松三太]]・[[古山良司]]らベテランとの競り合いの末、4着まで同タイムの激戦を制して重賞初勝利。[[1967年]]は79勝を挙げて初の関東リーディングに輝き、[[リュウズキ]]で[[皐月賞]]を制して[[八大競走]]を初制覇。[[1968年]]には自己最多の85勝を挙げるなど順調に活躍していたが、[[1971年]]に右足に[[痛風]]を患う。痛みに耐えかねて一時は引退も考えたが、懇意であった馬主の[[栗林友二]]に説得されて翻意し、体質改善により痛風を克服<ref>『優駿』2007年8月号 p.138</ref>。その後は復調して[[1974年]]~[[1975年]]、[[1978年]]と3度の関東リーディングを獲得。この間に[[イチフジイサミ]]で1975年に[[天皇賞|天皇賞 (春)]]、[[プレストウコウ]]で[[1977年]]の[[菊花賞]]を制覇。[[1976年]]には[[1月24日]]に[[香港]]・[[ハッピーバレー競馬場]]で行われた国際騎手招待競走「インターナショナルインビテーションカップ」<ref>[[1972年]]に創設され、[[インターナショナルジョッキーズチャンピオンシップ]]の基礎となった。</ref>に参戦したが<ref>[https://racingmemories.hk/photogallery/1976-01-24-jockeys-invitation-cup-race-card/ 1976-01-24 Jockeys Invitation Cup Race Card]</ref>、騎手招待杯(1800m)は9着、騎手招待プレート(1235m・11頭立て)は7着と2戦とも勝つことはおろか[[競馬場 #着順掲示板|掲示板]]にも入れなかった<ref>昭和51年1月25日[[朝日新聞]]朝刊「スポーツ短信 '''郷原騎手 二レースとも着外'''」</ref>。[[1979年]]には[[1月15日]]に史上5人目となる通算1000勝を達成し、[[カシュウチカラ]]・[[スリージャイアンツ]]で春秋の天皇賞を制覇。同年は64勝で初の全国リーディングを獲得し、[[1980年]]には[[オペックホース]]で[[東京優駿|日本ダービー]]を制し、[[ダービージョッキー]]および[[三冠 (競馬)|三冠]]騎手となる。[[メジロファントム]]を斥けた天皇賞(秋)や大本命馬の[[モンテプリンス]]を破ったダービーは、共に長い追い比べの末、相手をねじ伏せるように先着したものであった。その後は[[1983年]]の全国8位を最後にランキング上位からは遠ざかるようになったが、[[1987年]]~[[1988年]]には[[ニッポーテイオー]]とのコンビで[[安田記念]]・天皇賞(秋)・[[マイルチャンピオンシップ|マイルCS]]を制覇、[[1989年]]には[[ウィナーズサークル]]で2度目のダービー制覇を果たしている。1988年より[[日本騎手クラブ]]の会長に選出され、引退まで5年間を務めた。[[1991年]][[12月8日]]に史上4人目となる通算1500勝を達成し、[[1992年]][[1月]]に[[日本プロスポーツ大賞]]功労賞を受賞。[[1993年]][[2月28日]]をもって騎手を引退。通算1515勝は史上第4位の記録(当時)であった。
 
騎手引退3日後に調教師免許を取得し、[[美浦トレーニングセンター]]に厩舎を開業。長らく目立った活躍がなかったが、[[1999年]]に[[ゴーカイ]]が[[東京ジャンプステークス|東京オータムジャンプ]]を制して重賞初勝利を挙げると、[[2000年]]には同馬が[[中山グランドジャンプ]]を制して[[障害競走]]ながらGI初制覇を果たした。[[2001年]]には連覇を果たした。晩年にはゴーカイ産駒の[[オープンガーデン (競走馬)|オープンガーデン]]でも中山GJ2着<ref>[http://www.jra.go.jp/datafile/seiseki/g1/ngj/result/ngj2010.html 第12回 中山グランドジャンプ](日本中央競馬会)</ref>などの成績を残した。[[2011年]][[2月10日]]、2月28日をもって定年を3年残して調教師を引退することがJRAより発表された<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110210/rac11021015160001-n1.htm ディープインパクトの[[池江泰郎]]調教師らが引退] 産経新聞 2011年2月10日閲覧を参照</ref>。引退に際してはゴーカイとその産駒に対して「助けられ、励まされ、楽しませてもらいました」とのコメントを残した<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201102/022602.html 開催競馬場・今日の出来事、明日の取消・変更等](日本中央競馬会、2011年2月26日)</ref>。