「バートリ・ジグモンド」の版間の差分

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[[1588年]]にジグモンドは親政を開始し、[[オスマン帝国]]に敵対するキリスト教徒君主の同盟に参加した。こうしたトルコへの敵対政策は明らかに危険だったが、公国では全く憂慮されていなかった。また、[[トゥルダ]]で開催された議会はジグモンドに戴冠式に際しての宣誓文書を渡すよう要求したが、ジグモンドが貸し出しを拒むと、彼を退位させると脅かした。最終的にジグモンドは政敵に勝利し、[[1595年]]には逮捕した政敵全員を処刑した。
 
1595年、首都[[アルバ・ユリア|ジュラフェヘールヴァール]](アルバ・ユリア)で[[ワラキア]]の統治者[[ミハイ・ヴィテアズル|ミハイ勇敢公]]と条約を結んだ。この条約はワラキアがトランシルヴァニアの主権下に入ること、ジグムントはミハイ勇敢公のオスマン帝国との戦いを支援することが取り決められた。また同年、ジグモンドは[[神聖ローマ皇帝]][[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]の従妹[[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1574-1621)|マリア・クリスティーナ]]と結婚するという栄誉に恵まれた。しかし[[性行為|夫婦生活]]一度も送ることができずなく(一説によればジグモンドが[[性機能障害]]であったとされる)、1599年には彼女と離婚している。
 
8月13日、[[ネアジロヴ川]]河畔の[[カルガレニの戦い]]で、ミハイ勇敢公は[[シナン・パシャ]]の率いるトルコ軍を撃破した。ところが勝ったミハイの方では戦争を続けるだけの数の軍勢が手元におらず、トランシルヴァニアへと退却することになった。代わりに[[ボチュカイ・イシュトヴァーン]]に率いられた4万のトランシルヴァニア軍が加わり、連合軍は[[10月8日]]に[[トゥルゴヴィシュテ (ルーマニア)|トゥルゴヴィシュテ]]、[[10月12日|12日]]に[[ブカレスト]]、[[ブライラ]]の諸都市を次々に解放した。ワラキア自体も[[10月28日|28日]]には解放された。