「ベッティーノ・クラクシ」の版間の差分
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[[ミラノ]]で反ファシスト運動に関わった弁護士の息子に出生。[[イタリア社会党]]の学生組織で頭角を現し、[[1968年]]に初当選して政界入りする。この頃から[[ウィリー・ブラント]]や[[フランソワ・ミッテラン]]、[[フェリペ・ゴンザレス]]や[[アンドレアス・パパンドレウ]]と親交を深め、このことはその後の彼の政権運営や外交関係に大いに役立った。
1976年に総選挙で大敗した社会党の建て直しのために書記長に選出、[[マルクス・レーニン主義]]が
クラクシは、1987年まで2期4年首相の座にあったが、これは1945年以後のイタリア首相では[[アルチーデ・デ・ガスペリ|デ・ガスペリ]]に次ぐ長さであった(その後、[[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]がこの記録を塗り替えている)。しかし1990年代の[[タンジェントポリ]]でクラクシも汚職事件に関与したとして捜査の対象となったため、[[チュニジア]]に逃亡し、そのままイタリアに帰国することなく、[[ハンマメット]]にて心臓発作で客死した。
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