「吉田松陰」の版間の差分

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== 評価 ==
*[[品川弥二郎]] 「温順にして怒るといふことのなき体格の小兵の人であった」
 
*[[兒玉芳子]]
**「非常に親おもいで、優しい気質でございましたから、父や母に心配をさせまい、気を揉ませまいと、始終それを心がけていたようでございます。ごく幼い時分から落ちついた人でした。また兄は何事でも自分を後にして、他人の為に藎すというたちの人でございました」<ref>『吉田松陰全集』</ref>
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**「外柔なる松陰は内はなかなか剛なりき。少年の時より心が腕白なりしゆえ、かかる大胆の事も企てしなれと、後に至り松陰の幼時を知るものの語り合いたり」<ref>『吉田松陰全集』</ref>
**「松陰の顔には痘痕あり。世辞はつとめて用いず。一見甚だ無愛想なる如く思われたれど、一度、二度話し合う者は、長幼の別なく松陰を慕い懐かざるはなかりき。松陰も相手に応じて、談話を試みたり。松陰はまた好んで客を遇せり。御飯時には必ず御飯を出し、客をして空腹を忍んで談話をつづけしむる如きことは決してなさざりき。珍羞佳肴なしとて、御飯時に御飯を進むるを差しひかうる如きことは無かりしなり。有合せ物のみにて出し、快く客と共に箸持つ事を楽しめり。たまたま客を請することあるも、珍味を少しく用意するよりも、粗末なるものにても沢山に出すことを好めり」<ref>『吉田松陰全集』</ref>
 
*[[世古格太郎]] 「その人短小にして背かがみ、容貌醜く色黒く、鼻高にして痘痕あり。言語甚だ爽かにして、形状温柔に見えたり」<ref>『唱義聞見録』</ref>
 
*[[天野御民]]
**「先生睡眠極めて短し。ゆえに門人に書を授くるにあたり、書間といえども疲労して覚えず眠らるることあり。爾るときは暫時机に伏して一睡し、たちまちさめてまた書を授く」<ref>『吉田松陰全集』</ref>
**「先生絶えて書画骨董の娯楽なし、酒を飲まず、煙草を喫せず、一日門人と煙草の無用にして且つ害あることを論ず。これにおいて[[高杉晋作]]等大いに感奮し、その座において煙管を折りまた用いず。また深く諸生を戒めて囲碁将棋等を禁ぜられき」<ref>『吉田松陰全集』</ref>
**「先生最も夫人教育に熱心し、常にその良書なきを憂う」<ref>『吉田松陰全集』</ref>
 
*[[渡辺蒿蔵]]
**「丈高からず、瘦形であり、顔色は白っぽい。天然痘の痕があった」<ref>『吉田松陰全集』</ref>
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**「怒った事は知らない。人に親切で、誰にでもあっさりとして、丁寧な言葉使いの人であった」<ref>『吉田松陰全集』</ref>
*[[小幡高政]] 「奉行等幕府の役人は正面の上段に列座、小幡は下段右脇横向に坐す。ややあって松陰は潜戸から獄卒に導かれて入り、定めの席に就き、一揖して列座の人々を見廻す、鬚髪蓬々、眼光爛々として別人の如く一種の凄味あり。直ちに死罪申渡しの文読み聞かせあり、『立ちませ』と促されて、松陰は起立し、小幡の方に向い微笑を含んで一礼し、再び潜戸を出づ。その直後朗々として吟誦の声あり、曰く、「吾今為国死。死不負君親。悠々天地事。鑑照在明神」と。時に幕吏等なお座に在り、粛然襟を正して之れを聞く。小幡は肺肝を抉らるるの思あり。護卒また傍より制止するを忘れたるものの如く、朗誦終りて我れに帰り、狼狽して駕籠に入らしめ、伝馬町の獄に急ぐ」<ref>『吉田松陰全集』</ref>
 
*[[松村介石]] 「江戸において首を切られたその最後の態度は、実に堂々たるものであった。松陰の首を切った当の本人は、先年までおって、四谷におった。その人の話によると、いよいよ首を切る刹那の松陰の態度は真にあっぱれなものであったという事である。悠々として歩を運んで来て、役人共に一揖し、『御苦労様』と言って端坐した。その一糸乱れざる、堂々たる態度は、幕吏も深く感動した」<ref>『吉田松陰全集』</ref>
 
*[[野村靖]] 「先生は人情に厚い人で、人に接するに至って温和であったが、有情の極は無情の事をあえてするを辞せられなかった。すなわち大義のためには同志を殺すも平然たる趣きがあった。義理と正道の前には一歩も譲らぬ所があった。しかも、躬行実践、身をもって自ら率いられたのであるから、如何ともする事が出来なかった。先生はまず士規七則を躬行し、また七生説を作って、精神上の工夫を凝らされた。この二者は先生の生涯を一貫せられたから、松陰門下の者は皆この二者を経典として所持し、余の如き今日に至るまで、常に座右を離したことが無い」<ref>『松陰とその門下』</ref>