「後光明天皇」の版間の差分

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生涯に遺した漢詩の数について
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== 逸話 ==
* 天皇は[[剣術]]を好んだが、[[京都所司代]]の[[板倉重宗]]が「[[関東]]へ聞こえましてはよろしくございません。もしお止めなさらぬ時は、この重宗、[[切腹]]せねばなりませぬ」と諌めた。すると、天皇は「未だ[[武士]]の切腹を見たことがない。[[紫宸殿|南殿]](なでん)に壇を築いて切腹せよ」とのこと。これに対して、重宗は大いに閉口し、[[幕府]]も畏服したという<ref>[[三宅尚斎]]述・[[久米訂斎]]編 『尚斎先生雑談録』。</ref>。
* 天皇は常々「朝廷が衰微したのは、[[和歌]]と[[源氏物語]]が原因」と論じて、源氏物語を[[淫乱]]の書と決め付け、その類のものを一切読まず、また和歌も詠まなかったという<ref>『鳩巣小説』。</ref>。なお[[漢詩]]は生涯に、歴代天皇のうち第二位となる98首遺した。<ref>なお第一位は[[大正天皇]]の1367首で、第三の[[嵯峨天皇]]が97首の漢詩を遺した。[[石川忠久]]、『漢詩人 大正天皇 - その風雅の心』p.10</ref>しかし、禁中に臨幸した後水尾院から詠歌を促されると、天皇は供御の来る間にたちまち10首の歌を詠み上げ、これを見た院が深く感じ入ったという所伝もある<ref>[[近衛家熈]]述・[[山科道安]]編 『[[槐記]]』[[享保]]17年8月9日。</ref>。
* 父の後水尾院が病に罹ったので天皇は[[お見舞い|見舞い]]を思い立ったが、所司代の重宗から「[[朝覲]][[行幸]]には幕府への伺いが必要である」と横槍が入った。天皇は行幸を中止し、[[禁中]]の南東隅の築地から院御所の北西隅までの高[[廊下]]を急ぎ造らせた。そして「禁裏の内の行幸は常のこと」と言い、廊を渡って遂に見舞いを決行したという<ref>『[[槐記]]』[[享保]]17年9月12日。</ref>。
* 平生[[酒]]を嗜んだが、ある酒宴の席で[[徳大寺公信]]より酒の飲み過ぎについて諫言された。天皇は顔色を変え、剣を取って切り捨てようとすると、公信も「諫言さえお容れになるのなら、身命は惜しみません」と言って御前を去らず、侍臣らが執り成してその場を治めた。自らの態度を悔いた天皇は心安まらず、翌朝公信を召して、諫言のとおり今後は大酒を止める決意を述べ、「昨夜の有様こそ返す返す恥ずかしく思う」と、剣を手ずから下賜した。公信は何も言わず、ただ涙を抑えていたという<ref>[[若槻幾斎]] 『承応遺事』他。</ref>。