「拓跋鬱律」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
23行目:
|注釈 =
}}
'''拓跋 鬱律'''(たくばつ うつりつ、
== 生涯 ==
拓跋弗の子として生まれた。容貌は雄壮で、とても威信があり謀略に富んでいた。
[[310年]]、伯父の[[拓跋猗盧]]が部族を統治していた時代、[[白部 (鮮卑)|白部]]大人が反乱を起こして[[西河郡|西河]]に入った。これに呼応した[[鉄弗部]]の[[劉虎 (鉄弗部)|劉虎]]が[[雁門郡|雁門]]で挙兵し、劉
[[316年]]、拓跋猗盧・[[拓跋普根]]および[[代王 (拓跋普根の子)|その子]]が相次いで亡くなると、代の者は拓跋鬱律を代王に擁立した。
36 ⟶ 37行目:
その後、拓跋鬱律は西へ向かい[[烏孫]]の故地を攻略し、東へ向かい勿吉以西の地区を併合した。拓跋部の兵馬は強壮であり、騎射ができる将は百万にのぼったという。他部族を圧倒しており、代国は北方に覇を唱えた。
同年、[[前趙]]の[[劉曜]]が[[西晋|晋]]帝[[愍帝 (西晋)|司馬鄴]]を殺害したと聞くと、大臣たちへ「今、中原は乱れ、支配者が不在である。天は我に救援せよと言っているのか
[[319年]]、[[石勒]]は自ら趙([[後趙
幽州刺史
[[320年]]、[[前涼|涼州]][[刺史]]の[[張茂]]の使者が代国に朝貢した。
[[321年]]、[[東晋]]の[[元帝 (東晋)|元帝]]が代国へ使者を送り爵位を与えたが、拓跋鬱律はこれを断った。拓跋鬱律には、南方を平定しようという志があった。
伯母の惟氏
== 宗室 ==
53 ⟶ 54行目:
*男子
**[[拓跋翳槐]]…長男
**[[拓跋什翼ケン|拓跋什翼
**拓跋屈…三男
**[[拓跋孤]]…四男
*女子
**拓跋氏…[[劉路孤]]の妻
**拓跋氏…[[賀蘭
== 参考文献 ==
|