「崇神天皇」の版間の差分

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即位3年、[[三輪山]]西麓の[[磯城瑞籬宮|瑞籬宮]](みずかきのみや)に都を移した。即位4年、詔を発して[[万世一系]]を謳った。
 
即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に[[天照大神]]と[[倭大国魂神]]を宮中の外に出すことにした。天照大神は[[豊鍬入姫命]]に託して[[笠縫邑]](現在の[[檜原神社]])に祀らせた<ref name=higo53/><ref group="注釈">{{efn2|天照大神を祀る場所はその後各地を移動したが[[垂仁天皇]]25年に現在の[[伊勢神宮]][[内宮]]に御鎮座した。(詳細記事:[[元伊勢]])</ref>}}。倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬<ref group="注釈">{{efn2|垂仁紀に「穴磯邑の大市長岡岬に祀った」とある</ref>。}}に祀らせた。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。即位7年、[[大物主神]]が[[倭迹迹日百襲姫命]]に乗り移って自分を祀るよう託宣した。続いて[[倭迹速神浅茅原目妙姫]]・[[大水口宿禰]]([[穂積氏|穂積臣]]遠祖)・[[伊勢麻績君]]の三人がともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ[[大田田根子]]と市磯長尾市という人物にせよという神託を受けた。そこで大物主神の子とも子孫とも言われる[[大田田根子]]が探し出されて大物主神を祭る神主となった。[[三輪山]]を御神体とする[[大神神社]]の始まりである。[[市磯長尾市]](いちしのながおち)も倭大国魂神を祭る神主となった。すると疫病は終息して五穀豊穣となった。即位8年、活日(いくひ)という者を大神の掌酒(さかびと)とした。そして活日が神酒を捧げて歌を詠み、続けて諸大夫(役人)と天皇もそれぞれ歌を詠んだ。
 
*此の神酒は 我が神酒ならず 日本成す 大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久(活日)
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==