「武田義信」の版間の差分

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永禄元年([[1558年]])に晴信が信濃守護に補任された際には「准三管領」としての待遇を受けており、『甲陽軍鑑』に拠れば、[[永禄]]4年([[1561年]])の第4回[[川中島の戦い]]においても出陣して武功を挙げたと記載されている。
 
『越後野志』に拠れば、義信の川中島での戦い振り<ref>「[[越後野志]]」『下巻』)</ref>は凄まじく、永禄4年9月の会戦の際に、上杉軍が武田軍を蹴散らした上杉謙信の本陣が一休みしていると、武田太郎義信が八百の兵を率い、武田軍の旗を伏せ、腰差しをして密かに葦の中を伝い、不意に謙信の本陣を襲撃し、不意をつかれた謙信の旗本は、過半数が敗走し、この時老臣の志田源四郎義時・大川駿河守高重が討死、謙信も家宝の鍔鑓を用いて防戦する有様であった。まさに三軍が敗走かという時、色部修理亮長実が五百人、宇佐美定満が千余人を率いて馳せ参じ、義信軍を挟み撃ちにし、旗本隊と共に義信軍をようやく広瀬の渡しまで追い返したという。
 
永禄8年(1565年)10月には信玄暗殺を企てた[[謀反]]にかかわったとされ[[東光寺 (甲府市)|甲府東光寺]]に幽閉され(『甲陽軍鑑』)、永禄10年([[1567年]])10月19日には東光寺で死去した、[[享年]]30<ref>「武田源氏一流系図」『山資』6下(県外記録)所載、「十輪院武田家過去帳」『山資』6下所載、義信事件については後述。</ref>。同年11月に義信正室は駿河へ帰国している(『上越市史』)。