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Apple IIは1977年4月16日に[[ウェスト・コースト・コンピュータ・フェア]]で発表され、小売価格1,298ドルで発売された{{sfn|O'Grady|2009|page=3}}{{sfn|Linzmayer|2004|page=12}}{{#tag:ref|Apple II発売に際してApple Iを回収、無償交換キャンペーンでバージョンアップ対応したため現存するApple Iは少ない。|group="注"}}。ウォズニアックはHPを退社する以前からApple Iの改良作業を続けており、1976年8月にはすでに[[Apple II]]の実動するプロトタイプを完成させていた{{sfn|Linzmayer|2004|page=9}}{{sfn|Swaine|2014|pages=345}}。むき出しの[[マザーボード]]として販売されたApple Iとは大きく異なり、Apple II本体はキーボードや電源装置と一体化されており、外部[[ディスプレイ (コンピュータ)|モニタ]]をつなぐだけでコンピュータとして使用することができたほか、モニタへのカラー表示が可能なのも大きな特長だった{{sfn|O'Grady|2009|page=5}}{{sfn|Linzmayer|2004|page=12}}。販売は当初から好調だったが、1978年7月に発売された専用[[フロッピーディスク]]ドライブ「{{ill2|Disk II|en|Disk II}}」と、1979年10月に発売された専用の[[表計算ソフト]]「[[VisiCalc]]」が大ヒットを記録し、Apple IIの販売台数は爆発的に増加した{{sfn|Linzmayer|2004|pages=13-15}}。1980年には設置台数で10万台、1984年には設置ベースで200万台を超え、アップルに莫大な利益をもたらした。
 
=== 株式公開とApple IIILisa ===
{{multiple image
| align = right
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株式公開に先立つ1980年5月、アップルはビジネス向けに特化された[[Apple III]]を発表し、巨大企業[[IBM]]に商用コンピュータ市場で挑戦を仕掛けたが、4,340 - 7,800ドルという価格設定の高さと、ハードウェアの設計上の欠陥がわざわいし、Apple IIIは極度の販売不振に陥っていた{{sfn|O'Grady|2009|page=6}}{{#tag:ref|1985年の生産終了時点でApple IIIの合計販売台数は約6万5000台に過ぎなかった{{sfn|O'Grady|2009|page=7}}。|group="注"}}。他方、IBMは1981年8月に[[IBM PC]]を発表して[[パーソナルコンピュータ]]市場へ参入し、アップルとIBMの競争は激化した{{sfn|Linzmayer|2004|page=67}}{{#tag:ref|IBM PCの発売に際して、アップルは[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]に “'''Welcome, IBM. Seriously'''” と題する全面広告を出してIBMを挑発した{{sfn|Linzmayer|2004|page=68}}{{sfn|Swaine|2014|pages=434}}。|group="注"}}。
 
ジョブズは[[1979年]]12月に[[ゼロックス]]の[[パロアルト研究所|パロアルト研究所(PARC)]]を見学しており{{#tag:ref|この見学はIPO前にアップル株を[[ゼロックス]]に売却することの交換条件としてアップル側が要求したものだった{{sfn|O'Grady|2009|page=7}}。|group="注"}}、そこで見た[[マウス (コンピュータ)|マウス]]によって操作される先進的な[[グラフィカルユーザインタフェース|グラフィカルユーザインタフェース(GUI)]]に強い印象を受けた{{sfn|O'Grady|2009|page=7}}。ジョブズは当時アップルで開発中だった次世代コンピュータ「[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]](リサ){{#tag:ref|Lisaの名前は、ジョブズが当時交際していた女性との非嫡出子の名前からとったとされているが、ジョブズ本人はその娘の名前からとったことは認めていない。|group="注"}}」にPARCで目にしたようなGUIを実装することを決意し、設計への介入を強めたが、Lisaプロジェクトはジョブズの過剰な介入によって混迷することとなり、ジョブズはスコットら経営陣の判断で1980年9月にLisaの開発チームから外された{{sfn|Dormehl|2012|page=180}}{{sfn|O'Grady|2009|page=70}}<ref>{{Cite book |ref={{harvid|Isaacson|2015}} |first=Walter |last=Isaacson |year=2015 |title=Steve Jobs |publisher=Simon and Schuster |isbn=9781501127625}} p. 110</ref>。
 
1981年、ジョブズとの対立を深めたスコットは社長兼CEOを辞任することとなり、1981年3月からはマークラが暫定的なCEOとなった{{sfn|Linzmayer|2004|pages=15–16}}。スコットの後任として、[[マーケティング]]に優れた経営者を連れてくる必要に迫られたジョブズは、1983年に[[ペプシコーラ]]から[[ジョン・スカリー]]を引き抜いてアップルの新CEOに就けたが、スカリーを説得する際にジョブズが用いた「'''このまま一生、砂糖水を売り続ける気なのか?世界を変えるチャンスに賭けてみる気はないのか?'''」というフレーズはのちに有名となった{{sfn|シュレンダー|2016|pages=122–123}}。開発の遅れたLisaは[[1983年]]1月にようやく発売された{{sfn|O'Grady|2009|page=70}}。Apple IIIの販売不振が続き、主力製品であるApple IIも次第にIBM PCにシェアを奪われる中で、GUIやマウスなど革新的機能を備えるLisaへのアップルの期待は大きかったが、9,995ドルという極端な高価格と[[互換性|ソフトウェア互換性]]の欠如がユーザーを遠ざける結果となり、LIsaはApple IIIと同じく商業的な失敗作に終わった{{sfn|Linzmayer|2004|page=68}}{{sfn|O'Grady|2009|page=72}}。
 
=== Macintoshの発表・ジョブズの追放 ===
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ジョブズはMacintoshにはシンプルな美しさが必要だと考え、拡張スロットの採用を拒否し、[[フロッピーディスクドライブ]]もイジェクトボタンはみすぼらしいという理由で、現在にも通ずる[[オートイジェクト]]のドライブを[[ソニー]]に開発させ、採用した。マウス、GUIといったものだけでなく、視覚的にも動作的にも美しく分かりやすいものを採用した。Lisaプロジェクトに強い対抗心を抱いていたジョブズは、Macintoshの開発をアップル本社とは独立したプロジェクトとして推し進め、「'''海軍に入るより、海賊であれ'''(''It's better to be a pirate than to join the navy'')」と説いて開発メンバーの連帯感と反骨精神を鼓舞した{{sfn|シュレンダー|2016|pages=122-126}}{{sfn|Isaacson|2015|pages=109-112}}。そして、この精神のシンボルとして、Macintoshプロジェクトが行われていたビルの屋上には[[ドクロマーク]]の[[海賊旗]]が掲げられた{{sfn|シュレンダー|2016|pages=122-126}}。
 
長い開発期間を経て、Macintoshは[[1984年]]1月24日に発売された{{sfn|O'Grady|2009|pages=10-12}}。2日前の1月22日には、[[第18回スーパーボウル]]の放送で[[リドリー・スコット]]による有名なテレビCM『'''[[1984 (広告)|1984]]'''』がオンエアされており、Macintoshには大きな注目が集まった{{sfn|シュレンダー|2016|pages=130-132}}<ref>{{cite news |first=Kevin |last=Maney |title=Apple's '1984' Super Bowl commercial still stands as watershed event |url= https://usatoday30.usatoday.com/tech/columnist/kevinmaney/2004-01-28-maney_x.htm |work=[[USA Today]] |date=January 28, 2004 |accessdate= July 18, 2019}}</ref>。アップルによって ''The computer for the rest of us''として打ち出されたMacintoshは<ref>{{Citation|title=Apple Macintosh Is The Computer For The Rest Of Us Commercial|url=http://archive.org/details/Apple_Macintosh_Is_The_Computer_For_The_Rest_Of_Us_Commercial|date=1984|accessdate=2019-02-24}}</ref>、一般向けPCとしては初めてGUIを持ち、マウスでの操作によるGUI実現搭載していたMacintoshはおり、当初はメディアから称賛され、販売成績も非常に好調でありを浴び、1984年4月末の時点で早くも5万台を売り上げているなど販売も非常に好調だった{{sfn|Swaine|2014|pages=442-443}}<ref>{{cite news | url=https://www.nytimes.com/1984/04/24/business/apple-is-banking-on-new-portable-the-iic-computer.html | title=Apple is Banking on New Portable: The IIc Computer | work=The New York Times | date=1984-04-24 | accessdate=18 July 2019 | author=Hayes, Thomas C.}}</ref>。しかし、2,495ドルという価格が一般向けPCとしては高額であったことと、対応ソフトの不足がわざわいし{{#tag:ref|Apple IIとの互換性はまったくなく、当然対応するサード・パーティのソフトもほとんどなかった。|group="注"}}、発売から数カ月が過ぎるとMacintoshの販売は停滞し始め、開発担当者であるジョブズとスカリーらアップル経営陣との関係も悪化した{{sfn|シュレンダー|2016|pages=134-144}}{{sfn|Swaine|2014|pages=442-443}}<ref>{{Cite book |ref={{harvid|Hertzfeld|2005}}|first=Andy |last=Hertzfeld |year=2005 |title=Revolution in The Valley: The Insanely Great Story of How the Mac Was Made |publisher=O'Reilly Media |isbn=9780596007195}} p. 195</ref>。
 
1984年のクリスマスシーズン、需要の予測を大きく見誤ったアップルはMacintoshの過剰在庫に悩まされ、この第4四半期で初の赤字を計上し、従業員の5分の1にあたる人数の削減を余儀なくされた。Appleの経営を混乱させているのはジョブズだと考えたスカリーは、[[1985年]]4月にMacintosh部門からの退任をジョブズに要求、[[取締役会]]もこれを承認した。スカリーはこれで穏便に済むと考えていたが、ジョブズはスカリーが中国に出張している間に彼をAppleから追放することを画策した。このことは[[ジャン=ルイ・ガセー]]により事前にスカリーに伝えられ、1985年5月24日の重役会議でジョブズの画策をスカリーが問い質し、ほかの重役にスカリーとジョブズのどちらかを選ぶように告げた。重役のほとんどはスカリーを選び、その後取締役会もスカリーを支持したことで、ジョブズは5月31日にすべての業務から外された上で実権のない会長職を与えられた。
他方、アップルは外部のソフト会社にマック用のソフト開発を説得する職種である[[エバンジェリスト]](宣伝部)を作り、[[ガイ・カワサキ]]らを任命した。社内では波乱が起きてはいたが、Appleはコンピュータ業界にMacintosh(''The computer for the rest of us''<ref>{{Citation|title=Apple Macintosh Is The Computer For The Rest Of Us Commercial|url=http://archive.org/details/Apple_Macintosh_Is_The_Computer_For_The_Rest_Of_Us_Commercial|date=1984|accessdate=2019-02-24}}</ref>)という新たな方向性を示した。さらにアップルは、Macintosh向けに[[キヤノン]]と共同開発した[[レーザープリンター]]であり、[[アドビシステムズ]]が開発した[[PostScript]]を搭載した[[LaserWriter]]を登場させ、コンピュータ上で描いた文字や絵を出力する際にドットの粗い[[ディザ]]を表示させることなく、きれいな[[アウトライン]]で出力することを可能にした。また、[[アルダス]]社(現・アドビシステムズ)の開発した[[PageMaker]]とMacintosh、レーザーライターを組み合わせることで、[[DTP]]という市場を創造した<ref name=":0">{{Cite web|title=印刷と出版を変革したPostScript(前編) {{!}} 大塚商会|url=https://www.otsuka-shokai.co.jp/media/it-history/chapter001/postscript-1.html|website=www.otsuka-shokai.co.jp|accessdate=2019-02-24|language=ja}}</ref>。現在でもDTP用途ではMacintoshが多用されているのは、この2つの製品による革命とPostScriptの採用<ref name=":0" />、高価ではあったが[[グラフィック]]処理にも耐えうる[[モトローラ]]製[[CPU]]の採用に起因していると言える。
 
ジョブズは当時所有していたAppleの株を1株だけ残して約650万株をすべて売却し、[[NeXT]]社を創立した。それと同時にスカリー宛てに郵送で辞職願を提出し、会長職も辞任した。[[2010年]]の記事で、スカリーは一番後悔していることとして、ジョブズを辞任に追い込んだことを挙げている<ref>{{Cite news|title=John Sculley on Why He Fired Steve Jobs|date=2010-06-06|last=Weber|first=Thomas E.|url=https://www.thedailybeast.com/articles/2010/06/06/why-i-fired-steve-jobs|accessdate=2018-09-04|language=en|work=The Daily Beast}}</ref>。他方、アップルは外部のソフト会社にマック用のソフト開発を説得する職種である[[エバンジェリスト]](宣伝部)を作り、[[ガイ・カワサキ]]らを任命した。社内では波乱が起きてはいたが、Appleはコンピュータ業界にMacintosh(''The computer for the rest of us''<ref>{{Citation|title=Apple Macintosh Is The Computer For The Rest Of Us Commercial|url=http://archive.org/details/Apple_Macintosh_Is_The_Computer_For_The_Rest_Of_Us_Commercial|date=1984|accessdate=2019-02-24}}</ref>)という新たな方向性を示した。さらにアップルは、Macintosh向けに[[キヤノン]]と共同開発した[[レーザープリンター]]であり、[[アドビシステムズ]]が開発した[[PostScript]]を搭載した[[LaserWriter]]を登場させ、コンピュータ上で描いた文字や絵を出力する際にドットの粗い[[ディザ]]を表示させることなく、きれいな[[アウトライン]]で出力することを可能にした。また、[[アルダス]]社(現・アドビシステムズ)の開発した[[PageMaker]]とMacintosh、レーザーライターを組み合わせることで、[[DTP]]という市場を創造した<ref name=":0">{{Cite web|title=印刷と出版を変革したPostScript(前編) {{!}} 大塚商会|url=https://www.otsuka-shokai.co.jp/media/it-history/chapter001/postscript-1.html|website=www.otsuka-shokai.co.jp|accessdate=2019-02-24|language=ja}}</ref>。現在でもDTP用途ではMacintoshが多用されているのは、この2つの製品による革命とPostScriptの採用<ref name=":0" />、高価ではあったが[[グラフィック]]処理にも耐えうる[[モトローラ]]製[[CPU]]の採用に起因していると言える。
[[1981年]]にCEOを辞めたスコットの後任として、[[マーケティング]]に優れた経営者を連れてくる必要に迫られたジョブズは、[[ペプシコーラ]]の事業担当社長をしていた[[ジョン・スカリー]]に白羽の矢を立て、18か月に渡る引き抜き工作を行い、「'''このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか、それとも世界を変えるチャンスをつかんでみる気はないのか?'''(''{{lang|en|Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?}}'')」 などとスカリーを口説いた。スカリーは[[1983年]]にアップルのCEOの座に就き、ジョブズとの関係は「ダイナミック・デュオ」と呼ばれるようになり、2人の関係は常に良好だった。
 
[[1984年]]1月にはMacintoshのデビューに立ち会い、順調に経営が進行するように思われた。しかし、1984年のクリスマスシーズンは需要の予測を大きく誤り、Macintoshの過剰在庫に悩まされることになった。アップルはこの第4四半期で初の赤字を計上し、従業員の5分の1にあたる人数の削減を余儀なくされた。
 
Appleの経営を混乱させているのはジョブズだと考えたスカリーは、[[1985年]]4月にMacintosh部門からの退任をジョブズに要求、[[取締役会]]もこれを承認した。スカリーはこれで穏便に済むと考えていたが、ジョブズはスカリーが中国に出張している間に彼をAppleから追放することを画策した。このことは[[ジャン=ルイ・ガセー]]により事前にスカリーに伝えられ、1985年5月24日の重役会議でジョブズの画策をスカリーが問い質し、ほかの重役にスカリーとジョブズのどちらかを選ぶように告げた。重役のほとんどはスカリーを選び、その後取締役会もスカリーを支持したことで、ジョブズは5月31日にすべての業務から外された上で実権のない会長職を与えられた。
 
ジョブズは当時所有していたAppleの株を1株だけ残して約650万株をすべて売却し、[[NeXT]]社を創立した。それと同時にスカリー宛てに郵送で辞職願を提出し、会長職も辞任した。[[2010年]]の記事で、スカリーは一番後悔していることとして、ジョブズを辞任に追い込んだことを挙げている<ref>{{Cite news|title=John Sculley on Why He Fired Steve Jobs|date=2010-06-06|last=Weber|first=Thomas E.|url=https://www.thedailybeast.com/articles/2010/06/06/why-i-fired-steve-jobs|accessdate=2018-09-04|language=en|work=The Daily Beast}}</ref>。
=== Newton ===
[[ファイル:Apple Newton and iPhone.jpg|thumb|200px|[[アップル・ニュートン|Newton]](左)とiPhone(右)]]