「二階堂トクヨ」の版間の差分

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|影響を与えた人物=戸倉ハル
|学会=
|主な受賞歴=[[文部省]] 教育功労者(1940年){{sfn|穴水|2001|p=179}}<br />女子体育振興会 女子体育功労者(1941年){{sfn|西村|1981|p=175}}
|署名=
|公式サイト=
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井口の講習を受けたトクヨは素人では到底教えられないと痛感し、体操を学びたいと思うようになった{{sfn|西村|1983|p=42}}。幸運にも、体操専門学校を卒業した[[カナダ人]][[宣教師]]のフランシス・ケイト・モルガン{{sfn|穴水|2001|p=55}}(ミス・モルガン)が[[金沢市]]に[[キリスト教]]を布教しに来ていたため、トクヨは1日おきに30分の個人レッスンをモルガンの家の庭で受け始めた{{sfn|西村|1983|pp=42-43}}。モルガンの教える体操は、スウェーデン体操にドイツ体操を混合した独自のもので、指導のうまさと相まって、トクヨはどんどん体操にのめり込んでいった{{sfn|西村|1983|pp=43-44}}。トクヨが習った体操はさまざまな体操器具を使うものであったが、器具が整わなくてもできるよう、[[跳び箱]]の代わりに[[トロリーバッグ|トランク]]を、[[平均台]]の代わりに[[ベッド]]2台の間に渡した板を、水平棒の代わりに柱と柱の間に張った[[縄]]を、肋木の代わりに[[本棚]]を活用する方法{{#tag:ref|こうした器具の応用は体操専門学校で教わるものではなく、体操から遠ざかっている間にモルガンが身に付けた見聞や経験を生かしたものだと考えられる{{sfn|穴水|2001|p=59}}。|group="注"}}をモルガンは伝授した{{sfn|西村|1983|p=43}}。ついには石川高女の全生徒を対象に週28時間もの体操の授業を受け持つ{{#tag:ref|本業の[[国語]]でも50人の作文指導を行っている{{sfn|西村|1983|p=45}}。|group="注"}}に至り、[[石川県]]の郡部を回って小学校教師向けに体操の実地指導を行うようになった{{sfn|西村|1983|pp=44-45}}。この頃の教え子に時の[[石川県知事]]・[[村上義雄]]の娘がおり、父娘ともどもトクヨの体操に魅了され{{#tag:ref|トクヨが体操指導をする前に石川高女で行われていた体操は、校内に設置された[[遊動円木]]や[[ブランコ]]を使うもの、[[鉄亜鈴|アレイ]]や[[棍棒]]などの手具を使うもの、[[テニス]]であった{{sfn|穴水|2001|pp=43-44}}。スウェーデン体操は当時日本に入ってきたばかりであり、最新の体操を教え、洋服を着こなす若いトクヨ先生は生徒の憧れであった{{sfn|穴水|2001|p=16, 46}}。|group="注"}}、知事の後ろ盾を得て[[運動会]]ではプロの[[楽隊]]を入れて体操を行うという企画を行ったり、生徒を男役と女役に分けて[[カドリーユ]]を踊らせたりした{{sfn|西村|1983|p=47}}。この運動会では、入場券を得られなかった[[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]](現・[[金沢大学]])の学生が塀を乗り越えて乱入し、[[警察官]]が監視に当たるほどの大変な評判{{#tag:ref|石川高女の運動会を「金沢名物」にしたのはトクヨの功績である、と語る当時の生徒は多いものの、実際にはトクヨ赴任の前年の運動会に2,500人が観覧に訪れたという記録があり、石川高女の伝統にトクヨが上乗せしたものと言える{{sfn|穴水|2001|pp=46-47}}。|group="注"}}を呼んだ{{sfn|西村|1983|p=47}}。
 
[[1907年]](明治40年)7月、トクヨは[[高知師範学校|高知県師範学校]](高知師範、現・[[高知大学]]教育学部)への出向を命じられた{{sfn|西村|1983|p=50}}。しかし[[高知市]]に来てすぐに[[マラリア]]に感染し、入院を余儀なくされた{{sfn|西村|1983|p=50}}。回復後、教諭兼舎監{{#tag:ref|舎監として、夜中に高知師範女子[[寄宿舎]]に侵入した[[泥棒]]を[[薙刀]]で追い払った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=54}}。トクヨに[[武士]]の血が流れていることを示すエピソードである{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=54}}。|group="注"}}に着任し、歴史1時間、体操18時間{{#tag:ref|本格的に体操教師になったトクヨに弟の清寿は「物好きにもほどがある」と自分の思いを伝えたが、トクヨは全く意に介さなかった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=49}}。|group="注"}}を受け持った{{sfn|西村|1983|p=50}}。体操の授業中、生徒を木陰で休ませている時に、[[ウィリアム・シェイクスピア]]の[[戯曲]]を語り生徒を喜ばせた、という逸話が残っている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。また校長が大切にしている[[芝生]]の上で[[自転車]]を乗り回し、校長に不満を持つ人たちを痛快がらせたという話もある{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=185}}。[[高知県]]でもトクヨは体操講習会を開き、その模様は土陽新聞(現・[[高知新聞]])に取り上げられた{{sfn|西村|1983|pp=51-52}}。この頃トクヨは、自身がスウェーデン体操を教えているつもりであったが、実際には金沢では[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]、高知では[[歩兵第44連隊]]で行われていた軍隊式訓練を見よう見まねで教えていた{{#tag:ref|当時の日本では、子供や女子の体操指導法が確立しておらず、トクヨだけの責任ではない{{sfn|田原|2006|p=458}}。|group="注"}}のであった{{sfn|西村|1983|pp=52-53}}。軍人からは「女軍の一隊だ」などと言われたことに当時のトクヨは得意げだったが、後に振り返って「之れ等を思へば総べて漸死の種なり」と綴っている{{sfn|西村|1983|pp=52-53}}。[[1909年]](明治42年)[[7月31日]]、トクヨは二階堂姓に戻った{{sfn|西村|1983|p=21}}。[[1910年]](明治43年)末、トクヨは母校の東京女子高等師範学校{{#tag:ref|女子高等師範学校から改称していた。|group="注"}}(東京女高師)の体操科研究生になることを願い出た{{sfn|西村|1983|p=53}}。この願い出は後に取り下げるが、次には宮城師範への転任の話が舞い込み、更に母校・東京女高師からは助手就任の勧めが来て、また別の学校からも就任依頼が届いた{{sfn|西村|1983|pp=53-54}}。トクヨはこの中から東京女高師の職を選び、高知師範を辞して{{sfn|西村|1983|p=54}}[[1911年]](明治44年)春に東京女高師[[助教授]]に着任した{{sfn|穴水|2001|p=16}}。トクヨはこの時30歳で、異例の抜擢となった{{sfn|穴水|2001|p=16}}{{sfn|西村|1983|p=2}}。
 
東京女高師での仕事は、6時間の授業と井口阿くり・[[永井道明]]両教授の補佐であった{{sfn|西村|1983|p=54}}。ところが井口は同年7月に藤田積造と結婚して退職した{{#tag:ref|井口の退職は、文科出身ながら体育に一生を捧げようとしているトクヨの熱意に打たれた井口が、自らの後任とすべく引退したという説がある{{sfn|西村|1983|p=54}}。井口は退職時に「其筋へも学校へもあなたを推薦して行きますから」とトクヨに声をかけている{{sfn|西村|1983|p=54}}。|group="注"}}ため、トクヨは井口の後任として女子体育の指導者の重責を負うことになった{{sfn|西村|1983|p=54}}。体操を専攻した者ではないのに、体操界の権威になろうとしていたトクヨは同僚4人から妬まれ、家族宛ての手紙で「たかがウジ虫メラ!」とののしっている{{sfn|穴水|2001|p=82}}。
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| 6 || &nbsp; || &nbsp; || 生理 || 遊技 || 救急法 || &nbsp;
|}
開校して間もなく、体操教師不足の時勢からトクヨの活動は世間の注目を浴び、9月には塾生に出張教授依頼が舞い込むほどであった{{sfn|西村|1983|p=209}}。この年の[[12月4日]]、[[東京キリスト教青年会会館]]で[[第6回極東選手権競技大会]]を前にした女子体育の講演会が開かれ、野口源三郎・大谷武一・[[沢田一郎]]・内藤起行に続いてトクヨも演壇に立った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=144-146}}。この時の[[チラシ|ビラ]]でトクヨの肩書が「前東京女高師教授」になっていたことにトクヨは激昂し、「余は死せるか!」と冒頭の5分間熱弁を振るった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=146-147}}。

トクヨは臨時教員養成所が3年かけて教える内容をわずか1年で塾生に叩き込み、49人の1期生を世に送り出した{{sfn|西村|1983|p=210}}。この1期生には、後に[[参議院議員]]となる[[山下春江]]がいた<ref>「大学生 三代の歩み 30 女の園(八) たくましい体育教育 五輪入賞も生んだ特訓」読売新聞1969年10月28日付朝刊、9ページ</ref>。塾生は就職せずとも生きていけるような良家の女子であったが、見知らぬ土地への赴任もいとわず、体育教師となった{{sfn|勝場・村山|2013|p=14}}。しかもうち半数は([[3学期制]]の)2学期の末までに就職先が決まっており、トクヨの指導力が社会的に評価されていたことが窺える{{sfn|西村|1983|pp=212-213}}。トクヨは卒業生に次の言葉を送っている{{sfn|西村|1983|p=211}}。
{{Cquote|学校を我が家と心得、校長を親と思うて大切に仕へよ、同僚を師と仰ぎ、生徒を国宝と思へ、常に職を励みて業を成し、倹を行ひて身を立て、道を崇めて国家に奉仕を怠るべからず、かくて汝の生命をして最も幸福ならしめよ。}}
 
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=== 専門学校昇格と晩年(1926-1941) ===
[[1926年]](大正15年)[[3月24日]]{{sfn|西村|1983|p=226}}、日本女子体育専門学校(体専)に昇格・改称した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった{{sfn|西村|1983|p=227, 230}}。ところが定員を150人に増やしたところ、開校初年は約130人、2年目は約70人と[[定員割れ]]してしまった{{sfn|西村|1983|p=229}}。その理由を資格が取れないからだと考え、[[1928年]](昭和3年)[[6月4日]]、体専は中等教員無試験検定資格を取得し、学生は卒業と同時に体操科の中等教員免許が取得できるようになった{{sfn|西村|1983|p=229}}。しかしその後も学生数は回復せず、1学年40 - 50人台の状態が続いた{{sfn|穴水|2001|p=157}}。弟の真寿は、[[日中戦争]]が暗い陰を次第に濃くしていったことがその理由の1つであると分析した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=209}}。
 
この頃のトクヨは忙しさのあまり居留守を使ったり{{#tag:ref|居留守を見破って長居する訪問客もいたが、その時のトクヨは訪問客の前を素通りして別の部屋に行くということをやってのけた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=185-186}}。これを見た訪問客はさすがに唖然として帰る人が多かったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=186}}。|group="注"}}、黒髪を切り[[スキンヘッド|丸坊主]]になったりした{{#tag:ref|1930年(昭和5年)・1931年(昭和6年)頃から坊主頭だったという{{sfn|西村|1983|p=246}}。そこでトクヨは「桜菊[[尼]]」と自称するようになった{{sfn|西村|1983|p=222}}。|group="注"}}エピソードが関係者の間で知られている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。また震災の被害や学校移転で資金繰りに窮し、学生からも借金をする羽目になった{{sfn|西村|1983|pp=227-228}}。文部省が審査のために来校した時には、[[慶応義塾大学]]や東京女子体操音楽学校(現・[[東京女子体育短期大学]]/[[東京女子体育大学]])から図書や備品を借りて審査をやり過ごした{{sfn|西村|1983|p=228}}。
 
[[ファイル:Physical Education Teachers of Tokyo Higher Normal School.png|thumb|右から順に今村嘉雄、野口源三郎、二宮文右衛門、浅川正一。この写真は1941年(昭和16年)の[[東京高等師範学校]](現・[[筑波大学]])の体育科教師陣であるが、浅川以外は二階堂体操塾・体専でも教師を務めた。]]
体専時代のトクヨの学校経営は、思いの強さから「専制的」と見られ、トクヨと相いれず学校を去った教師も少なくなかった{{sfn|西村|1983|p=247}}。11年ほど体専で講師を務めた今村嘉雄も不満を抱いていた1人であったが、表立ってトクヨに反発するのは1人の理事{{#tag:ref|今村は「林良富」と書いているが、おそらく林良斉(良斎)の誤記である{{sfn|西村|1983|p=247}}。林は[[大日本帝国海軍|海軍]]軍医の出身で、二階堂体操塾創設時代から教鞭をとり、解剖学や救急療法などの授業を担当した人物である{{sfn|西村|1983|p=207}}。|group="注"}}しかいなかったと語り、晩年のトクヨを「よい軍国婆さん」と表現した{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}。社会が[[戦争]]へと向かっていったことと戦前の体育が軍と深い関係があったこともあり、トクヨは青年[[将校]]を愛し、将校の側もそれを分かっていて[[軍事演習]]の帰りに兵隊を連れてたびたび来校した{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}。その際には授業を中断して湯茶で接待したり、軍人に見せるために学生にダンスさせたりしていたという{{sfn|西村|1983|p=247}}。トクヨの日々の発言や雑誌『ちから』の記事も[[国家主義]]・[[国粋主義]]的な色味を帯びていき、「日本のほこり」のために女子スポーツ選手を輩出しようと考えるようになっていった{{sfn|西村|1983|pp=248-251}}。こうした中でトクヨは学校経営の実務を名誉校長の二宮文右衛門に任せ{{sfn|西村|1983|p=248}}、校内に引きこもり、病気がちとなった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=208-209}}。弟の真寿に「自分なんぞは今に誰からも相手にされなくなって、電信柱の蔭にひとりでうずくまっているかもしれない」という苦しい胸の内を明かした{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=209}}。
 
こうした中でトクヨは学校経営の実務を名誉校長の二宮文右衛門に任せ{{sfn|西村|1983|p=248}}、校内に引きこもり、病気がちとなった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=208-209}}。弟の真寿に「自分なんぞは今に誰からも相手にされなくなって、電信柱の蔭にひとりでうずくまっているかもしれない」という苦しい胸の内を明かした{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=209}}。[[1933年]](昭和8年)にトクヨとの面会を許された記者によると、当時のトクヨは[[火鉢]]で[[餅]]を焼きながら来客を応対し、3坪ほどの部屋を書斎兼校長室としていた<ref name="yh1933">"スポーツ界 人物風景 C スポーツ兩性觀 「陸のヲバちゃん」二階堂女史 熱・熱・『…よ』と力んで」読売新聞1933年2月24日付朝刊、5ページ</ref>。室内は洋風で奥には「正義無敵」の額があり、トクヨは[[ロイド眼鏡]]をかけ、和装していた<ref name="yh1933"/>。[[語尾]]の「〜よ」を強調する話し方をし、楽しみは[[入浴]]・[[睡眠]]・月1回の[[歌舞伎]]鑑賞であった<ref name="yh1933"/>。
[[1941年]](昭和16年)[[4月7日]]、体専の[[入学式]]{{#tag:ref|この年の入学者は90人で、体専史上最多となった{{sfn|穴水|2001|p=157}}。|group="注"}}の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院(現・[[東京共済病院]])に入院、後に本人の希望で[[慶應義塾大学病院]]に転院した{{sfn|西村|1983|p=252}}。病名は[[胃癌|胃ガン]]で、ほかに[[糖尿病]]や[[白内障]]などの持病があった{{sfn|西村|1983|p=252}}。4月14日{{#tag:ref|[[4月24日]]説もある{{sfn|穴水|2001|p=149}}。|group="注"}}にはトクヨの妹・とみの娘である美喜子を[[養子縁組|養女]]にとった{{sfn|西村|1983|p=10}}。入院中、体専の生徒や卒業生は看病や見舞い、[[輸血]]を申し出たが、一切断っている{{sfn|西村|1983|p=253}}{{#tag:ref|週1回、[[放射線治療]]のために病室から移動する際に運搬車を押すことは例外的に認められた{{sfn|西村|1983|pp=252-253}}。[[看護師]]の制止を振り切って卒業生が病室に入って来た際には「二階堂を見舞う暇があったら自分の職務を立派に果たして来なさい!」と叫んだが、布団をかぶってすすり泣いたという{{sfn|西村|1983|p=253}}。また別の人には、「今大往生を楽しんでいるところだ、最後の聖地をけがされたことは残念だ、出て行ってくれ」と激怒した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=214}}。弟の清寿が見舞いに来た時でさえ、開口一番「なんでこんなところに来た、帰れ」と激昂した{{sfn|穴水|2001|pp=150-151}}。|group="注"}}。同年7月17日午前1時40分に死去、60歳であった{{sfn|西村|1983|p=254, 262}}。当日は稀に見るような暑さであったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。生涯[[独身]]であった{{sfn|西村|1983|p=247}}。
 
[[1941年]](昭和16年)[[4月7日]]、体専の[[入学式]]{{#tag:ref|この年の入学者は90人で、体専史上最多となった{{sfn|穴水|2001|p=157}}。|group="注"}}の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院(現・[[東京共済病院]])に入院、後に本人の希望で[[慶應義塾大学病院]]に転院{{#tag:ref|トクヨが慶應病院を希望したのは、10年来
[[1941年]](昭和16年)[[4月7日]]、知己で体専の[[入学式]]{{#tag:ref|この年の入学者は90人校長副代理を務めた加藤信一がいたから、体専史上最多となったある{{sfn|穴水|2001|p=157149, 158}}。|group="注"}}の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院(現・[[東京共済病院]])に入院、後に本人の希望で[[慶應義塾大学病院]]に転院した{{sfn|西村|1983|p=252}}。病名は[[胃癌|胃ガン]]で、ほかに[[糖尿病]]や[[白内障]]などの持病があった{{sfn|西村|1983|p=252}}。4月14日{{#tag:ref|[[4月24日]]説もある{{sfn|穴水|2001|p=149}}。|group="注"}}にはトクヨの妹・とみの娘である美喜子を[[養子縁組|養女]]にとった{{sfn|西村|1983|p=10}}。入院中、体専の生徒や卒業生は看病や見舞い、[[輸血]]を申し出たが、一切断っている{{sfn|西村|1983|p=253}}{{#tag:ref|週1回、[[放射線治療]]のために病室から移動する際に運搬車を押すことは例外的に認められた{{sfn|西村|1983|pp=252-253}}。[[看護師]]の制止を振り切って卒業生が病室に入って来た際には「二階堂を見舞う暇があったら自分の職務を立派に果たして来なさい!」と叫んだが、布団をかぶってすすり泣いたという{{sfn|西村|1983|p=253}}。また別の人には、「今大往生を楽しんでいるところだ、最後の聖地をけがされたことは残念だ、出て行ってくれ」と激怒した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=214}}。弟の清寿が見舞いに来た時でさえ、開口一番「なんでこんなところに来た、帰れ」と激昂した{{sfn|穴水|2001|pp=150-151}}。|group="注"}}。同年7月17日午前1時40分に死去、60歳であった{{sfn|西村|1983|p=254, 262}}。当日は稀に見るような暑さであったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。生涯[[独身]]であった{{sfn|西村|1983|p=247}}。
 
「ゆかり」と題した手帳には、次の言葉が互いに何の脈絡もなく並んでおり、死の間際のトクヨの心境を映し出している{{sfn|西村|1983|pp=253-254}}。( / は改行)
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校長としての忙しい生活の中での束の間の休息には、よく[[新宿]]の[[映画館]]に出かけた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=124}}。映画鑑賞が趣味だったわけではなく、誰にも邪魔されずにぐっすり眠るのが目的であった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=124}}。ハッと起きると周囲の人々が不思議そうな表情を浮かべているので、トクヨは恥ずかしかったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=124}}。途中で[[中村屋]]に寄り、両手いっぱいに[[パン]]を買って帰るのが定番であった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=124}}。
 
ある新聞で、トクヨはドイツの[[俳優]]・[[エミール・ヤニングス]]にたとえられたことがある<ref name="yh1933"/>。トクヨはこれが不服だったようで、体専の生徒に「[[楠木正成]]は忠臣、[[石川五右衛門]]は泥棒と相場が決まっているが、エミール・ヤニングスは何だ?」と問うたが、生徒は困惑し、黙って下を向いたという<ref name="yh1933"/>。
 
=== 服装と髪型 ===
金沢で初めて洋服を着た人であると言われている{{sfn|穴水|2001|p=16}}。当時のトクヨは颯爽とした印象の人だったが{{sfn|穴水|2001|p=16}}、体専の校長になった頃には服装へのこだわりはなくなり、「ぞろっとした[[着物]]」を着ていたと学生が証言している{{sfn|西村|1983|p=246}}。
 
かつらは3つくらい持っていた{{sfn|西村|1983|p=246}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=124}}。来客時には[[かつら (装身具)|かつら]]を着用したが、慌ててかぶるため、[[眉毛]]の近くまでかかっている時から大きく後退している時まであった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=124}}。ある日、電車に乗っていると、ほかの客に傘の先でかつらを引っかけて外されてしまい、乗客一同に爆笑されるという経験をした{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=209}}。しかしトクヨは全く動じることはなく、平然としていたという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=209}}。坊主頭にする前には[[203高地#二百三高地髷|二百三高地まげ]]にしており、髪型が崩れないように10数本もピンを刺したその姿はまるで[[甲冑]]を付けた武士のようであった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=119}}。
 
=== 美声と怒号 ===
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* 国家の隆盛は女の健康からです☆{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=123}}
* [[昆布巻き]]にして!{{#tag:ref|靴下をだぶつかせていた生徒に対して{{sfn|西村|1983|p=244}}。|group="注"}}{{sfn|西村|1983|p=243}}
* コンニャクの化物のようです{{#tag:ref|生徒が手を上げているときにトクヨが手をたたいて揺れた時に使用した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=120}}。「○○の化物のようです」という表現自体、よく使っていた{{sfn|西村|1983|p=175}}。|group="注"}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=120}}
* [[金平糖]]の気の狂ったの!{{sfn|西村|1983|p=241}}
* 女子体育は女子の手で☆{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=123}}
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|ダンス{{sfn|西村|1981|pp=170-171}}|||ほぼ価値を認めない||授業で積極的に採用
|-
|体操服{{sfn|西村|1983|p=184}}||ブルマー{{#tag:ref|井口阿くりがアメリカ留学から持ち帰ったもので、東京女高師や[[奈良女子高等師範学校]](現・[[奈良女子大学]])で採用されていた{{sfn|西村|1983|p=166}}。|group="注"}}||チュニック
|-
|教材{{#tag:ref|戸倉ハルが受講したもの{{sfn|桐生|1981|p=242}}。|group="注"}}||合理体操、跳び箱、平行棒、肋木、梯子||器械体操、ダンス、スウェーデン体操
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オスターバーグとトクヨの出会いは、1913年(大正13年)1月にトクヨがKPTCに入学した時である{{sfn|西村|1983|p=5}}。入学前にオスターバーグについてトクヨが知っていたことは、[[スウェーデン人]]であるということだけで、名前すら正確に把握していなかった{{sfn|西村|1983|p=5, 106}}。トクヨが入学した当時のオスターバーグは64歳で、実務はミス・ウィクナーらに任せ、自身が積極的に教壇に立つことはなくなり、引退の準備を始めていたところであった{{sfn|西村|1983|p=106, 120}}。
 
オスターバーグはあまり授業をしなかったため、トクヨが直接教わったのは「実地教授法」だけであるが、生徒1人ひとりに長所と短所を指摘して本入学の可否を伝えるところを目撃したり、オスターバーグの人格に接したりしたことで、トクヨの留学以後の人生をオスターバーグの存在なしに語れないほどの大きな影響を与えた{{sfn|西村|1983|p=88, 93-94, 106-107}}。具体例を挙げると、オスターバーグの学校創立経緯を聞いてトクヨは国家的認識を高めた{{sfn|上沼|1972|p=64}}。オスターバーグは自身の学校を建てた理由として、よりよいスウェーデン体操を紹介すること、女子が体操教師に最適であることを証明したかったこと、独立自営的なイギリスの女性に体操教師という職が最適であることを認知させたかったことの3つだったと語った{{sfn|上沼|1972|p=64}}。さらに学校を建てた目的は、[[ロシア帝国]]とドイツに挟まれた祖国・スウェーデンでは富国強兵に女性の力が最重要で、有事の際には友好国・イギリスの女性の援助を受けたいと考えたからだと話した{{sfn|上沼|1972|p=64}}。オスターバーグはトクヨの体格を「手足の短い猪首の、まるい体の、丈のひくい」と評し、一見すると体操教師には向かないが、「今日の教授振りによりて、只天才家との賞辞を呈する外に詞はない」と絶賛した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=179}}。
 
留学中、トクヨとオスターバーグは共通の知人である永井道明について話しており、オスターバーグはトクヨの帰国後に自身の学校を建てるように促し、協力もすると言った{{sfn|西村|1983|pp=107-108}}。トクヨに期待を寄せていたオスターバーグは、トクヨが1年半でKPTCを去ると知って「2年在学しないなら入学を許可すべきでなかった、入学した以上は2年いなければならない」と主張し、他の学校も視察せねばならないトクヨを困惑させた{{sfn|西村|1983|p=98}}。最終的にオスターバーグは、トクヨが学校を去ることを許し、トクヨはイギリス国内の体操学校を訪問して1915年(大正4年)4月に日本へ帰国した{{sfn|西村|1983|p=98, 104}}。
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|女性体操教師養成の意義||体操教師となって心身の健康と経済的自活を実現し、女性の権利を獲得する。||女性の地位向上のため体操教師の資質を向上する。ただし良妻賢母を体育の目的とする。
|-
|学校以外の体育||学校に女性や子供向けの学級を設置し、地域との結び付きを作る。||児童から高齢者までが体育をする[[生涯スポーツ|生涯体育]]が重要である。
|}
 
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トクヨは「何一つ非の打ちどころの無い人物」と絹枝を手放しで絶賛し、体専に留めおきたいという思いが強かった{{sfn|勝場・村山|2013|p=30, 32}}。一方の絹枝は女子陸上競技のパイオニアとして更なる飛躍を目指し、トクヨの反対を振り切って[[大阪毎日新聞]]に入社した{{sfn|勝場・村山|2013|p=30, 32}}。絹枝が立て続けに大会に出場していた際には「こうした大会に出場することは大いに考えるべきこと」とトクヨはたしなめた{{sfn|勝場・村山|2013|p=64}}。
 
こうしてトクヨと絹枝は仲違いしてしまうが、その後和解したようで{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=143-144}}、[[1930年]](昭和5年)、国際女子競技大会への遠征費として金一封(1,000円)を絹枝に送った{{sfn|勝場・村山|2013|pp=64-65}}。[[1929年]](昭和4年)のトクヨの忠告は図らずも[[1931年]](昭和6年)に現実となり、絹枝は大阪帝国大学付属病院(現・[[大阪大学医学部附属病院]])に入院した{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。同年[[5月31日]]、トクヨは絹枝の見舞いに訪れ、やつれた絹枝を見たトクヨは涙を流した{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。絹枝も涙しつつ心配させまいと気丈に振る舞い、トクヨの差し入れである[[スイカ]]を2片食べた{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。しかし絹枝は回復せず、[[8月2日]]に24歳の若さでこの世を去った{{sfn|勝場・村山|2013|p=82}}。トクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」という言葉を『[[婦人公論]]』に寄せた{{sfn|勝場・村山|2013|p=87}}。また[[プラハ]]に絹枝の碑が建立されることになった際、借金をしてまで寄付を行った{{sfn|穴水|2001|p=23}}、女子スポーツの意見を求められた際には「人見さんが生きてるといいんですがねえ」と感慨深げに語った<ref name="yh1933"/>
 
=== 恋愛と縁談 ===
女子体育の指導者として同時代に活躍した井口阿くりや藤村トヨと比較しても結婚の機会は豊富にめぐってきた上、この2人よりも結婚願望が強かったにもかかわらず{{sfn|上沼|1972|p=99}}、トクヨは生涯独身であった{{sfn|西村|1983|p=247}}。しかし、年を重ねてからも結婚願望を抱き続けていた{{sfn|穴水|2001|p=143}}、弟の真寿は40代・50代になっても結婚への希望を捨てていなかったと語っている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=172}}。1933年(明治8年)、52歳にして受けた新聞の[[インタビュー]]で、トクヨは理想の男性像に「侵略的な男」を挙げ、智・仁・勇を兼備している必要があると答えた<ref name="yh1933"/>。教え子には人の妻となり母となることがいかに幸福であるか、そして女子体育はそれを叶えるものであることを説き、そのような女子体育を実践し続けた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=169-170}}。
 
最初の縁談は、三本木小の恩師の仲介で、仙台出身の東京帝国大学法科大学(現・[[東京大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]])の学生との間で持たれ{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}{{sfn|穴水|2001|pp=11-12}}。先方が東京から帰る時に、トクヨは[[福島駅 (福島県)|福島駅]]で合流し、同じ列車で宮城県に帰ることもあったほどの仲となり{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=165}}、[[結納]]まで進んでいた{{sfn|穴水|2001|p=12}}。先方は[[一人親家庭|母子家庭]]で、トクヨの卒業と同時に結婚して家庭に入り、母の面倒を見ることを要望していた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}{{sfn|穴水|2001|p=12}}。一方のが、トクヨは福島師範3年生(18歳)で、女高師への進学を夢見ており{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}、進学と[[婚約]]は両立できるものと考え、女高師を受験、合格を果たした{{sfn|穴水|2001|p=12}}。女高師に進学すると、トクヨの思いに反して、先方は破談を申し入れた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}。トクヨの家族は「法科の学生なのに[[人権]]無視だ」と憤り、仲介した恩師も「縁がなかった、意に介することはない」と慰めた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=29}}。この経験は長らくトクヨに暗い影を落とし、上京時には[[東京大学の建造物#門|赤門]]の前を通ると破談にした男と出くわすのではないかとひやひやし{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}{{sfn|穴水|2001|p=12}}、その男が別の女性と結婚したと風の噂で聞いた時には悶絶した{{sfn|穴水|2001|pp=12-13}}。イギリスから帰国した際に、家族に[[松島]]旅行を勧められるも、[[新婚旅行]]で松島に行く予定だった苦い思い出からトクヨは拒否し、「人の心も知らないで」とつぶやいた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=29-30, 163-164}}。
 
高知師範では[[恋愛]]を経験している{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=52}}。相手は歩兵第44連隊の青年将校で、トクヨが慰問のため[[衛戍]]病院を訪ねたのが出会いのきっかけであった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=52-53}}。2人は順調に仲を深め、結婚を意識するまでになったが、連隊長が反対したため破談となった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=53}}。弟の清寿は姉トクヨから事の次第を手紙で知らされたが、掛ける言葉が見つからなかったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=53}}。
 
東京女高師の助教授時代には、福島師範の同級生の母親がトクヨを心配して[[仲人]]を買って出てくれた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=196}}。仲介された相手は海軍少佐で、トクヨと同じようにわけあって結婚できなかった人物であったことから、トクヨに深く同情し、自分と結婚したらもっと悲惨な目に遭わせてしまうと発言した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=196}}。この時トクヨは母方の叔父・小梁川文平を同伴していたが、文平は「忙しいのに」とひどく不機嫌で、仲人の家に着くと「おみやげはどうするんだ」と言い、先方の同情発言も理解していなかった、と手紙に記している{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=196}}。そうこうしているうちにトクヨのイギリス行きが決まり、縁談は自然消滅、先方はトクヨの留学中に別の女性と結婚した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=196}}。教授時代にも縁談が持ち込まれ、相手の男性はある分野で知名度の高い人物であった{{sfn|穴水|2001|p=19}}。トクヨは一旦この縁談を断るも後から気になりだし、弟の真寿に再交渉を依頼した{{sfn|穴水|2001|p=19}}。真寿は仲人だった人物に会いに行って事情を話すと、既に先方は婚約者が決まったと伝えられ、「もっと早く言ってくれたら」と残念がられた{{sfn|穴水|2001|p=20}}。真寿はトクヨに手紙で結果報告をし、トクヨから「二日二晩飯も食わずに泣き明かした。もう迷わないで女子体育という使命に生きる」という旨を記した長々しい返事を受け取った{{sfn|穴水|2001|p=20}}。
 
東京女高師教授に就任した時には34歳になっていたが、トクヨはまだ若いつもりで、「老女流教育家を前にして、古くなった[[軍艦]]をおばあさんの船にたとえる講演会が学校であって、おかしくて仕方なかった」と家族に話し、弟の真寿は内心「そのうち自分もおばあさん船の仲間になってしまうくせに」と思っていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=171-172}}。そんなある日に縁談が持ち込まれ、相手の男性はある分野で知名度の高い人物であった{{sfn|穴水|2001|p=19}}。トクヨは一旦この縁談を断るも後から気になり出し、真寿に再交渉を依頼した{{sfn|穴水|2001|p=19}}。真寿は仲人だった人物に会いに行って事情を話すと、既に先方は婚約者が決まったと伝えられ、「もっと早く言ってくれたら」と残念がられた{{sfn|穴水|2001|p=20}}。真寿はトクヨに手紙で結果報告をし、トクヨから「二日二晩飯も食わずに泣き明かした。もう迷わないで女子体育という使命に生きる」という旨を記した長々しい返事を受け取った{{sfn|穴水|2001|p=20}}。
最晩年になっても、トクヨは体専の若手男性教師を校長室に呼び、疑似恋愛のようなものを楽しんでいた{{sfn|穴水|2001|p=25}}。[[佐々木秀一 (1912年生の教育学者) |佐々木秀一]]は校長室に気軽に出入りを許された教師の1人で、佐々木を応対するときは、普段の孤独感を漂わせず明朗快活で、かつらは外したままだった{{sfn|穴水|2001|p=25}}。入院中、実弟の見舞いすら激怒して追い返したにもかかわらず、佐々木には面会を許し、「私は、他人のおせわになりたくない。」と話した{{sfn|穴水|2001|p=26, 150-151}}。
 
最晩年になっても、トクヨは体専の若手男性教師を校長室に呼び、疑似恋愛のようなものを楽しんでいた{{sfn|穴水|2001|p=25}}。[[佐々木秀一 (1912年生の教育学者) |佐々木秀一]]は校長室に気軽に出入りを許された教師の1人で、佐々木を応対するときは、普段の孤独感を漂わせず明朗快活で、かつらは外したままだった{{sfn|穴水|2001|p=25}}。入院中、実弟の見舞いすら激怒して追い返したにもかかわらず、佐々木には面会を許し、「私は、他人のおせわになりたくない。」と話した{{sfn|穴水|2001|p=26, 150-151}}。通常の訪問者には面会時間30分を要求し<ref name="yh1933"/>、居留守を使うこともあった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}一方で、心を許した男性記者とは3時間も懇談を楽しんでいた<ref name="yh1933"/>
 
=== トクヨと軍人 ===
体育の世界に入ったことにより、トクヨの人生は軍人との関係が深くなった{{sfn|西村|1983|pp=46, 246-248}}。金沢で第9師団に[[乗馬]]練習のため単身司令部に乗り込んだのが、記録に残る最初の軍人との関係である{{sfn|西村|1983|p=46}}。乗馬練習中に、将校が部下に号令をかけたがあまりうまくなく、トクヨが代わりに号令をかけたら兵隊は一糸乱れずに動いたというエピソードもある{{sfn|西村|1983|p=46}}。金沢や高知では近くの師団・連隊の訓練の様子を眺めて軍隊式の体操を授業で行っていた{{sfn|西村|1983|pp=52-53}}。
 
特に体専時代は[[陸軍戸山学校]]の教官や青年将校、[[歩兵第1連隊]]とのかかわりが多かった{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}{{sfn|穴水|2001|p=127}}。体専に青年将校が来校した際には、授業を中断させて湯茶での接待や生徒のダンス披露などで歓待したため、現場教師の不満の種となった{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}。トクヨの「わが身を国に捧げる」という思いは、献身的な姿勢で教え子に感動を与える一方で、その時々の政策に簡単に引っ張られてしまうという弱点を持っていた{{sfn|西村|1983|p=248}}。トクヨの人生の末期はまさに戦争に向かっている時代であり、国家主義・国粋主義的な思想を持った「軍国ばあさん」になっていき{{sfn|西村|1983|pp=248-251}}、トクヨの死後の体専の学生は、「人生とは何ぞや…と考えるより先ず自分の心の雑草を抜く。」という言葉を残しており、トクヨの教えは[[思考停止]]装置になってしまった{{sfn|穴水|2001|p=28}}。
 
トクヨは高知時代に軍人と恋をし{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=52-53}}、教え子を軍人と結婚させたこともある{{sfn|穴水|2001|p=127}}。一方で、教え子の見合い相手の軍人に対し、「今に軍隊などなくなる時代が来る」と言ったこともあり、軍人に対する見方は首尾一貫したものではなかった{{sfn|穴水|2001|pp=127-128}}。人生の後半になるとトクヨは教育体操の中に[[兵式体操]]が入り込んでくることに反対した{{sfn|西村|1983|p=153}}。軍隊で行われる兵式体操の目的は号令による統一行動であり、教育体操の目的は個人としてあるいは団体としての日常的な動作を体得することであることから、目的が違うと考えたためである{{sfn|西村|1983|pp=153-155}}。
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ある日、吉岡彌生が体専に来校した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=138}}。トクヨが応接室でもてなすと吉岡は「まあ立派なスプーンですこと、まあお見事な菓子器ですこと」と、茶器に比べて貧弱な校舎や学校設備に対して暗に皮肉を言った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=138}}。その場では軽く受け流したものの、吉岡が帰った後、トクヨは人前で「さんざんからかわれちゃった」と言いながら、吉岡の[[物真似|ものまね]]を披露してうっぷんを晴らした{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=138}}。
 
またある時に、トクヨは川村文子を訪ねて金の工面を依頼した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=137-138}}。川村もお金に苦労していたのでその旨を伝えて断るも、トクヨは川村の付けていた[[ダイヤモンド]]の[[指輪]]に気付いて、「私は恩給もつぎ込んで一文無しですが、そのダイヤは高価なものではありませんか」と食い下がった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=138}}。川村は「これは肌身離さずつけている記念のものでございますが、何ならこれを金にかえて御用立ていたしましょうか」と応じ、さすがのトクヨも、そこまでは求めていないと恐縮して帰った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=138}}。このエピソードは、トクヨの死後に川村がトクヨの末弟・真寿に語ったものである{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=138}}。
 
== 理論と業績 ==
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トクヨの保護愛育の対象は、老若男女を問わず、[[民族]]や[[国籍]]をも超えたものであった{{sfn|穴水|2001|p=141}}。トクヨは二階堂体操塾で、当時日本の統治下にあった地域の出身者を日本人と平等に、というよりもむしろより積極的に愛護した{{sfn|穴水|2001|p=141}}。
 
|accessdate=競泳|p=
保護愛育的体育とは言いながらも、トクヨの指導する体操は依然として厳しいものであった{{sfn|西村|1981|p=169}}。トクヨの授業を受けた戸倉ハルによると、特に徒手体操が厳しく、「半前半上屈臂」など独特の名前を付けた体操をさせたという{{sfn|西村|1981|p=169}}。
 
=== 女子体育と女子スポーツ ===
トクヨが留学から帰国した当時の日本では、井口阿くりら先人の努力もむなしく、女子体育は男子体育よりも下位に置かれ、女子体育の標準点や到達点の設定には程遠く、男子体育を1段から数段下げた教材を女子に与えている状態であった{{sfn|穴水|2001|p=132}}。教育現場では、体力的に男子体育の指導が満足にできなくなってきた老教師が女子体育で威張り、トクヨは「この立ちぐされ連」と手厳しい批判を行った{{sfn|穴水|2001|p=132}}。「女子体育は女子の手で」というトクヨの口癖は、男性教師は女子の身体特性をよく理解せず、過度に配慮した体育を課す現状が女子のためになっていないという考えを表したもので、女性体操教師共通の思いであった{{sfn|西村|1983|p=171}}。トクヨは著書『足掛四年』に「何時の世でも女らしい体操家が女子の世界には勝利を占めねばなりませぬ」という言葉を綴っている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=162}}。また1925年(大正14年)に全国女学校長会議で「[[走高跳]]、[[スキー]]、[[バスケットボール]]、[[ソフトボール|インドアベースボール]]などは女子には過激なので深く考えて行わねばならぬ」と決議したことに対して、トクヨは自身の経験上、心配には及ぶまいとして、ある程度までは男子と同じでよいと意見した<ref>「女の運動も 或程度まで 男と同じでよい 過激と云って左程 退けるには及ばぬ 二階堂女塾長 二階堂トクヨさん語る」読売新聞1925年11月11日付朝刊、7ページ</ref>
 
トクヨにとって女子体育の目的とは良妻賢母であり、健全な女性でなければ健全な子供を産めないので、女子体育は国力の源であると考えていた{{sfn|田原|2006|pp=459-460}}。また女子の身体の構造と機能は、男子より複雑であるから、男子体育よりも女子体育の方が重要であると主張した{{sfn|穴水|2001|pp=132-133}}。したがって男子と同じ体育を女子にさせても成功はないと述べ、女子に適した教材としてダンスを採用した{{sfn|穴水|2001|p=133, 138}}。逆に女子に適さない教材として激しい運動を挙げ、具体的には[[マラソン]]を例示した{{sfn|西村|1983|p=170}}。マラソンは女子には激しすぎる上、優美ではないからだとした{{sfn|西村|1983|p=170}}。
 
他方で、当時の日本は新しいスポーツが次々と流入し、国際大会に出場する選手も増加傾向にあった{{sfn|穴水|2001|p=130}}。トクヨ自身、イギリスからクリケットとホッケーを日本に持ち帰った<ref name="Osaki"/>{{sfn|西村|1983|p=178}}。トクヨの持ち帰ったクリケットとホッケーは、スウェーデン体操と並行してKPTCで行っていた競技であり、クリケットはKPTCで最も難しい競技、ホッケーは最も人気の競技であった{{sfn|西村|1983|p=137}}。

しかしながら、当時日本でスポーツができるのはほんの一握りの人々であり、彼らとてスポーツを楽しむという領域にはなく、旧来からの武術的視点や国家意識高揚の視点にとらわれがちであった{{sfn|穴水|2001|p=130}}。このためトクヨは国民体育をある程度まで向上させることが先決で、選手の育成は二の次だと考えていた{{sfn|穴水|2001|p=131}}。その反面、国際大会で日本の女子選手を勝たせたいという思いがあり、「日本選手婦人後援会」なる組織を立ち上げて応援した{{sfn|穴水|2001|p=130}}。勝てば女の面目・母の面目が立つからという思い{{sfn|穴水|2001|p=130}}と、国際舞台での日本婦人の体面を保ちたいという思いからである{{sfn|西村|1983|p=170}}。この矛盾はトクヨ自身、よく自覚しているものであった{{sfn|穴水|2001|p=130}}。そして、人見絹枝との出会いを通して、トクヨはアスリート養成に舵を切っていくのであった{{sfn|勝場・村山|2013|pp=24-25}}。
 
=== ダンスの採用 ===
ダンスは、スウェーデン体操のうちの優美体操の領域に相当し、女子に適する運動として積極的に採用した{{sfn|穴水|2001|p=138}}。ダンスが曲線的運動で女子に曲線美を与えることと、ダンスが民族の女性的精神の発露であると考えたからである{{sfn|西村|1983|p=169}}。ダンスそのものは、トクヨのイギリス留学前より日本の体操科の授業で取り入れられており、井口阿くりによって{{仮リンク|ファーストダンス|en|First dance}}や[[ポルカ]]セリーズなどが持ち込まれていた{{sfn|西村|1983|p=178}}。トクヨ自身、留学前の石川高女教師時代から、カドリールやレディポルカなどの[[ハイカラ]]なダンスを授業や運動会で実施していた{{sfn|西村|1983|p=47}}。明治時代の井口やトクヨによるダンスの普及活動は、日本の学校ダンスの先駆的な取り組みであり、体操的な要素を持ったドイツの諸派のダンスを主に採用していた{{sfn|川畑・浅井 編|1958|pp=187-188}}。留学中にはロンドンの舞踏塾に13回通塾して3人の教師から個人レッスンを受け、[[ホーンパイプ]]、スコッチ[[リール (ダンス)|リール]]、アイリッシュ[[ジグ (音楽)|ジグ]]、ウェルシュダンスなどの稽古に励んだほか、数校でイギリスの民族舞踊などを学んだ{{sfn|西村|1983|pp=96-102}}。
 
トクヨのダンスにおける功績は、ダンスの基本練習として身体練習・表現練習・リズム練習の3要素を初めて実践したことである{{sfn|西村|1983|p=176}}。ダンスのレパートリーは、トクヨ自身の創作ダンスや、学生が習ってきたものに手直しを加えたものをどんどん追加していき、1924年(大正13年)頃には50種類ほどになっていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=129}}。ファーストやカドリールといった西洋式のダンスのみならず、「[[雨降りお月さん]]」や「[[花嫁人形]]」といった日本の[[童謡]]を用いたもの、[[木曽節]]や[[佐渡おけさ]]といった各地の[[民謡]]を用いたものまで多様であった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=129-131}}。ダンスに使う[[楽曲]]は、古典的な曲から当世の[[流行歌]]まで幅広く取り入れ、歌っても踊っても良い曲を揃えていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=129}}。
 
教え子の記憶によると、東京女高師教授時代にトクヨが教えたダンスは時期によって異なっていた{{sfn|西村|1981|p=171}}。1915年(大正4年)に入学した戸倉ハルは、「三人遊び」と題したトクヨの創作ダンス{{#tag:ref|3人1列になって行うダンスで、トクヨは「見ばえのする遊戯」と表現した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=115}}。|group="注"}}やメイポールダンス、ブラックナッグ(Black Nag)、ギャザリングピースカッツ、ロブスタージック{{#tag:ref|個々人が任意の位置に付き、個別に踊る教育的舞踊であった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=114-115}}。|group="注"}}などの[[フォークダンス]]を習った{{sfn|西村|1981|p=171}}。一方、1918年(大正7年)に入学した堀井千代鶴は、在学中にウォーキング、ホップ、ポルカ、バランス、[[ギャロップ (ダンス)|ギャロップ]]といった歩法しか習わなかったといい、「三人遊び」は卒業後にトクヨの体操講習会で初めて習ったと証言している{{sfn|西村|1981|p=171}}。
 
大正時代の末期頃から、戸倉ハルと土川五郎は、舞踊愛好者との交流会を開いていた{{sfn|桐生|1981|p=250}}。この交流会は昭和初期になると毎週行われるようになり、体育ダンスの荒木直範・渋井二夫、日本体育専門学校(現・[[日本体育大学]])の赤間雅彦・加藤孝吾・沢山駒次郎、女子体育家の藤村トヨ・伊沢ヱイ姉妹、美濃部タカらが出席していた{{sfn|桐生|1981|p=250}}。トクヨもこの交流会に参加し、出席者は女子体育の普及にはダンスが最適との共通理解が生まれた{{sfn|桐生|1981|p=250}}。
 
=== 体操服の改良 ===
留学から帰国したトクヨは、[[和服]]が自然な呼吸機能を阻害する{{#tag:ref|和服は胸部を圧迫し、体を締め付けるため、浅薄な上部呼吸しかできないとトクヨは主張した{{sfn|西村|1981|p=166}}。|group="注"}}ので改良しなければならないと考え、「和服式体操服」を考案した{{sfn|西村|1981|pp=166-167}}。留学先のイギリスで自国の文化を大切にする教育に触れて感銘を受け、ぜひとも体操服を和風にしたいと考えたのであった{{sfn|西村|1981|p=167}}。
 
トクヨは1916年(大正5年)10月に[[貞明皇后]]が東京女高師に[[行幸|行啓]]するのに合わせて和服式体操服の「着初め式」を行った{{sfn|西村|1981|p=167}}。その体操服は、和服から胸枷を取り去り、[[袖]]をシャツのようにし、[[ボトムス|下衣]]に[[袴]]を採用して{{#tag:ref|折り込むことで、長短が自在にできるという利点があった{{sfn|西村|1981|p=167}}。|group="注"}}、[[帯]]を[[紐|ひも]]状にしたものであった{{sfn|西村|1981|p=167}}。中に[[下着|肌着]]を着込むことで寒暑を調整し、足元は[[靴下]]を履くか否かは自由とし、[[足袋]]でも[[下駄]]でも構わないとした{{sfn|西村|1981|p=167}}。この格好ならば体操科の授業以外にそのまま出席しても何ら問題なく、[[羽織]]や[[コート (衣服)|コート]]を上にまとえば外出もできると利点を主張した{{sfn|西村|1981|pp=167-168}}。着初め式に続き、トクヨは2年生の生徒15人を率いて皇后にダンスを披露し{{#tag:ref|トクヨは授業の前に[[物忌み|斎戒]][[沐浴]]し、[[短刀]]を携行して万が一失敗したときは[[自殺|自決]]する覚悟で臨んだ{{sfn|西村|1983|p=165}}。|group="注"}}、皇后は「本校の教育一般に進歩の状あり。又特に体育に留意する所あるを見る。」という感想を述べた{{sfn|西村|1983|p=165}}。せっかく着初め式まで行ったものの、和服式体操服は不採用となり、トクヨは結局、KPTCと同じチュニックを教え子に着せたのであった{{sfn|西村|1981|p=168}}。
 
トクヨによる体操服の改良の実践は、非活動的な従来型の衣服が男性への女性の隷属を強いるものであるから、運動を通して衣服を改良し、女性の地位を向上させるという意味合いを持ったものであった{{sfn|上沼|1972|p=100}}。井口阿くりが持ち帰り、永井道明も採用したブルマーも女性の心身の解放を目指した体操服であった{{sfn|西村|1983|p=166-168, 184}}。
 
=== 著書 ===
いずれの著書も女高師文科出身の文才を発揮し、読者に話しかけるような文体を取っている{{sfn|西村|1983|p=173}}。
* {{cite book|和書|title=體操通俗講話|publisher=東京寶文館|date=1917-08-31|page=776|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/939695}}{{全国書誌番号|43009663}}
** 表紙の著者名は「二階堂豊久」名義([[奥付]]は「二階堂トクヨ」)。書名の「通俗」は一般向けに啓蒙する、という意味合いで付されたが、後に古い学説に囚われた頭の固い専門家は対象外である、という意味を帯びるようになっていった{{sfn|穴水|2001|p=22}}。一般向けのユーモアを交えた体育書かつ珍しい女性執筆者の本であるということで注目された{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=68}}。スウェーデン体操の入門書であり、創始者の{{仮リンク|ペール・ヘンリック・リング|en|Pehr Henrik Ling|sv|Pehr Henrik Ling}}の体操観、4つの体操領域について詳しく記述している{{sfn|西村|1983|pp=143-144}}。
* {{cite book|和書|title=足掛四年 英國の女學界|publisher=東京寶文館|date=1917-09-26|page=392|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941386}}{{全国書誌番号|43010445}}
** 表紙の著者名は「櫻菊女史」{{#tag:ref|桜菊(おうぎく)はトクヨの号([[ペンネーム]])であり、晩年には「桜菊尼」と自称していた{{sfn|西村|1983|p=222}}。また、イギリスから帰国後に自身が教えた生徒を集めて桜菊会を結成した{{sfn|西村|1983|p=222}}。|group="注"}}名義(奥付は「二階堂トクヨ」)。留学の記憶がまだ鮮明に残っている時期に執筆され、読み物風の体裁から、留学経験を生々しく伝えるものである{{sfn|穴水|2001|p=71}}。
* {{cite book|和書|title=男女幼學年兒童に科すべき模擬体操の實際|publisher=東京敎育研究會|date=1918-05-22|page=151|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/939717}}{{全国書誌番号|43009681}}
** 著者名は表紙・奥付ともに「二階堂豊久」名義。留学成果を日本流に翻案したもので{{sfn|穴水|2001|p=132}}、子供のための体操指導例を示した本である{{sfn|西村|1983|p=143}}。児童の自発性を重視しており、[[大正自由教育運動|大正自由教育]]を反映したものとなっている{{sfn|西村|1983|p=157}}。頭の固い専門家からは全く理解されず、「害あって益なし」と酷評された{{sfn|穴水|2001|p=132}}。
 
== 顕彰 ==
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** [[嘉永]]6年[[2月 (旧暦)|2月]](グレゴリオ暦:[[1853年]]3月) - [[1903年]]([[明治]]36年)[[2月18日]]{{sfn|西村|1983|pp=20-21}}。[[検事]]・[[判事]]・[[弁護士]]・[[衆議院]][[議員]]{{sfn|西村|1983|pp=20-21}}。[[福島民報]]の社長を務めていた頃にトクヨから手紙を受け取り、形式上、養女として迎え入れた{{sfn|西村|1983|p=20}}。トクヨの祖父・小梁川正之助から「鍋でも釜でも洗わしてください」とトクヨを預けられたが、「勉強に精進していただきたい」と応じてトクヨの勉学専念環境を整えた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=22}}。1896年(明治29年)3月から1909年(明治42年)[[7月30日]]までトクヨは小笠原姓を名乗った{{sfn|西村|1983|p=21}}。
* 長弟:二階堂清寿
** [[1882年]](明治15年)[[12月5日]] - [[1976年]](昭和51年)[[8月14日]]{{sfn|西村|1983|pp=9-10}}。[[小学校教員]]、[[公務員]]{{sfn|西村|1983|pp=9-10}}。[[仙台市]]内で校長など{{#tag:ref|北五番丁高等小学校([[仙台市立第二中学校]]の源流)、東二番丁尋常小学校(現・[[仙台市立東二番丁小学校]])校長や宮城県女子師範学校教諭を務めた{{sfn|西村|1983|p=9}}。|group="注"}}を務めた後、[[仙台市役所]]学務課長に就任する{{sfn|西村|1983|pp=9-10}}。弟妹の中でトクヨが最も信頼を置いていた{{sfn|穴水|2001|p=159}}。トクヨの死後、二階堂美喜子(トクヨの養女)に頼られて日本女子体育専門学校の2代目校長に就任する{{sfn|穴水|2001|p=27}}。94歳没{{sfn|西村|1983|p=10}}。
* 末弟:二階堂真寿
** [[1894年]](明治27年)[[6月5日]] - [[1977年]](昭和52年)[[11月29日]]{{sfn|西村|1983|p=11}}。[[牧師]]・教育者{{sfn|西村|1983|p=11}}。東京帝国大学哲学科卒{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=202}}。トクヨが留学中に家族に送った手紙を無断で[[新聞社]]に提供して記事に掲載さてしまい、トクヨを激怒させた経験があり、トクヨからは頼りにならないと思われていた{{sfn|穴水|2001|p=81, 159}}。駒込教会・九段教会で牧師を務めた後、聖学院神学部(現・[[聖学院大学]])・梨花女子専門学校(現・[[梨花女子大学校]])講師や延禧専門学校(現・[[延世大学校]])教授となった{{sfn|西村|1983|p=11}}。二階堂体操塾創設時から教鞭をとり、[[1944年]](昭和19年)より日本女子体育専門学校教授、[[1965年]](昭和40年)に日本女子体育大学教授、[[1975年]](昭和50年)に[[学校法人二階堂学園]]理事長に就任する{{sfn|西村|1983|p=11}}。83歳没{{sfn|西村|1983|p=11}}。
* 妹:村田とみ
** 名前は「登美子」とも書く{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}。トクヨの留学中に、[[許婚]](村田順義)がありながら別の男性と恋仲になり、トクヨを怒らせた{{sfn|穴水|2001|pp=79-80}}。後、村田と結婚して村田姓となる{{sfn|西村|1983|p=11}}。2人の娘を出産するも、夫に先立たれ、長女も後を追うように死亡した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}。夫亡き後、主にトクヨの資金援助で生活する{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}。[[1954年]](昭和29年)に67歳で死去{{sfn|西村|1983|p=10}}。
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* 義理の息子:二階堂直富
** トクヨの養女・美喜子の夫<ref name="yu5101">「名門に春寒い学校騒動 学長、養嗣子が対立 日本女子体育大学 “二階堂遺産”めぐって」読売新聞1951年1月29日付朝刊、3ページ</ref>。トクヨの死後に美喜子と結婚し、2児をもうける<ref name="yu5101"/>。トクヨ亡き後の体専は、美喜子理事長・清寿校長・直富の三頭体制になり、美喜子の死に伴いトクヨの財産を継承する<ref name="yu5101"/>。体専の校舎や敷地はトクヨの個人名義になっていたため、これを継承した直富の発言権が増すこととなった<ref name="yu5101"/>。
 
== 著書 ==
* {{cite book|和書|title=體操通俗講話|publisher=東京寶文館|date=1917-08-31|page=776|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/939695}}{{全国書誌番号|43009663}}
** 表紙の著者名は「二階堂豊久」名義([[奥付]]は「二階堂トクヨ」)。書名の「通俗」は一般向けに啓蒙する、という意味合いで付されたが、後に古い学説に囚われた頭の固い専門家は対象外である、という意味を帯びるようになっていった{{sfn|穴水|2001|p=22}}。一般向けのユーモアを交えた体育書かつ珍しい女性執筆者の本であるということで注目された{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=68}}。スウェーデン体操の入門書であり、創始者の{{仮リンク|ペール・ヘンリック・リング|en|Pehr Henrik Ling|sv|Pehr Henrik Ling}}の体操観、4つの体操領域について詳しく記述している{{sfn|西村|1983|pp=143-144}}。
* {{cite book|和書|title=足掛四年 英國の女學界|publisher=東京寶文館|date=1917-09-26|page=392|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941386}}{{全国書誌番号|43010445}}
** 表紙の著者名は「櫻菊女史」{{#tag:ref|桜菊(おうぎく)はトクヨの号([[ペンネーム]])であり、晩年には「桜菊尼」と自称していた{{sfn|西村|1983|p=222}}。また、イギリスから帰国後に自身が教えた生徒を集めて桜菊会を結成した{{sfn|西村|1983|p=222}}。|group="注"}}名義(奥付は「二階堂トクヨ」)。留学の記憶がまだ鮮明に残っている時期に執筆され、読み物風の体裁から、留学経験を生々しく伝えるものである{{sfn|穴水|2001|p=71}}。
* {{cite book|和書|title=男女幼學年兒童に科すべき模擬体操の實際|publisher=東京敎育研究會|date=1918-05-22|page=151|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/939717}}{{全国書誌番号|43009681}}
** 著者名は表紙・奥付ともに「二階堂豊久」名義。留学成果を日本流に翻案したもので{{sfn|穴水|2001|p=132}}、子供のための体操指導例を示した本である{{sfn|西村|1983|p=143}}。児童の自発性を重視しており、[[大正自由教育運動|大正自由教育]]を反映したものとなっている{{sfn|西村|1983|p=157}}。頭の固い専門家からは全く理解されず、「害あって益なし」と酷評された{{sfn|穴水|2001|p=132}}。
 
== 演じた人物 ==