「ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)」の版間の差分

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[[1866年]]の[[普墺戦争]]では、彼は騎兵隊を率いて[[オーストリア帝国]]側で参戦した。[[1870年]]に勃発した[[普仏戦争]]では、[[北ドイツ連邦]]の部隊を指揮してフランスと戦った。
 
[[1877年]][[6月13日]]に伯父のルートヴィヒ3世が嗣子ないまま死去したため、ルートヴィヒ4世が大公位に即いた。この頃[[ボン]]で学んでいた[[ドイツ帝国|ドイツ]]皇太子ヴィルヘルム(後の[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]])が次女の[[エリザヴェータ・フョードロヴナ|エリーザベト]]に求婚するが、エリーザベトが拒絶したうえ従兄妹同士にあたるということもあってこれは成立しなかった。
 
ルートヴィヒ4世は[[1878年]]に大公妃アリスに先立たれ、[[1884年]][[4月30日]]に Alexandrina Hutten-Czapska (1854年 - 1941年)と[[貴賎結婚]]した。ルートヴィヒ4世は彼女に対して Romrod 伯爵夫人の称号を与えた。しかしこの再婚は大きな問題になり、結局1年も経たないうちに彼女とは離婚することになった。
 
[[1892年]][[3月13日]]、ルートヴィヒ4世はダルムシュタットで死去した。大公妃アリスとの間には[[ヴィクトリア・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|ヴィクトリア]](1863年 - 1950年、[[ミルフォード=ヘヴン侯ルイス・マウントバッテン]]妃)、[[エリザヴェータ・フョードロヴナ|エリーザベト]](ロシアの[[セルゲイ大公]]妃)、[[イレーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|イレーネ]](1866年 - 1953年、[[プロイセン王国|プロイセン]]王子[[ハインリヒ・フォン・プロイセン (1862-1929)|ハインリヒ]]妃)、[[エルンスト・ルートヴィヒ (ヘッセン大公)|エルンスト・ルートヴィヒ]]、フリードリヒ・ヴィルヘルム(1870年 - 1873年)、[[アレクサンドラ皇后|アリックス]]([[ロシア帝国|ロシア]]皇帝[[ニコライ2世]]妃)、マリー・ヴィクトリア(1874年 - 1878年)の二男五女が生まれており、長男のエルンスト・ルートヴィヒが大公位を嗣いだ。
 
{{先代次代|[[ヘッセン君主一覧|ヘッセン大公]]|[[1877年|1877]]-[[1892年|1892]]|[[ルートヴィヒ3世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ3世]]|[[エルンスト・ルートヴィヒ (ヘッセン大公)|エルンスト・ルートヴィヒ]]}}