「日野家」の版間の差分

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日野流はいずれも代々儒学を家業として発展し、院政期以降名家の家柄として定着した。[[極位極官|極官]]はおおむね[[中納言]]だったが、[[鎌倉時代]]に[[伏見天皇]]に重用された[[日野俊光|俊光]]がはじめて[[大納言|権大納言]]にまで昇り、日野流の[[嫡流]]の地位を確立した。[[元亨]]2年([[1324年]])に発覚した[[後醍醐天皇]]の武力倒幕計画である[[正中の変]]に積極的に参画したことで著名な[[日野資朝|資朝]]はこの俊光の子だが、父が[[持明院統]]の重臣であったにもかかわらずあえて[[大覚寺統]]の傍流である後醍醐に仕えたために父から勘当されている。同様に後醍醐に仕え、[[元徳]]3年([[1331年]])に発覚したさらなる倒幕計画[[元弘の乱]]に参画した[[日野俊基|俊基]]は日野流の[[庶家|庶流]]の出身である。
 
[[建武の新政]]が崩壊して[[足利尊氏]]と[[後醍醐天皇]]との対立が決定的となり軍事衝突に至たると、日野家出身の[[三宝院]][[賢俊]](俊光の子)は持明院統の[[光厳天皇|光厳院]]から尊氏に対し後醍醐追討の[[院宣]]を下す仲介をした。このことを契機として日野家と[[足利将軍家|足利家]]の結びつきが生じた。[[正平の一統]]が破綻したあとに尊氏が擁立した[[後光厳天皇]]からも重用された日野家からは、公家の分家の創立が低調だったこの時代にあって、[[裏松家|裏松]]・[[烏丸家|烏丸]]・[[日野西家|日野西]]など多くの分家が創出された。[[室町幕府]]3代将軍[[足利義満]]の[[御台所]]だった[[日野業子|業子]]及び[[日野康子|康子]](裏松家出身)以後、将軍の[[正室]]は日野流、特に裏松家から出すことが例となり、4代[[足利義持|義持]]の正室[[日野栄子|栄子]]、6代[[足利義教|義教]]の正室[[日野宗子|宗子]]、8代[[足利義政|義政]]の正室[[日野富子|富子]]、9代[[足利義尚|義尚]]の正室(実名不詳、[[日野勝光|勝光]]の娘)、11代[[足利義澄|義澄]]の正室(実名不詳)と6代にわたって将軍の[[御台所]]を輩出している。一時、義政の継嗣に擬せられた[[足利義視|義視]]の正室も勝光・富子の妹(実名不詳)である。
 
その一方で日野流の隆盛は将軍にとっては重荷となる側面もあり、6代将軍義教は日野流の勢力抑制に乗り出す。御台所だった宗子も退けられ、代わって[[正親町三条公雅]]の娘である[[正親町三条尹子|尹子]]が御台所となった。日野流の[[宗家]]である[[日野有光|有光]]も義教の不興を買って失脚し、所領没収の憂き目を見ている。[[家督]]と所領は有光の弟[[日野秀光|秀光]]が代わって継いだが、[[永享]]4年([[1432年]])に彼は死去し、日野流に属する[[広橋家]]の[[広橋兼郷|兼郷]]の子[[日野春龍丸|春龍丸]]が跡を継いだ。しかし春龍丸もその年のうちに死去し、結局日野家の家督と所領は兼郷に与えられ、兼郷は一時「日野中納言」を名乗っている。