「国民革命軍」の版間の差分

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[[ファイル:Countermand concession.jpg|thumb|国民革命軍の歩兵|代替文=]]
[[ファイル:NRA cavalry.jpg|thumb|国民革命軍の騎兵隊]]
国民革命軍は、合計354個の'''師'''(師団)を1945年までに編制しており、その総兵員数は430万人に及んだ。その内の20個は'''騎兵師'''(騎兵師団)だった。建軍前期の各師団の定員数は5千から6千人であり、日本など他の近代軍隊の師団が1万から1万5千人だったのに比べてはるかに少なかった。[[中独合作]]の下でドイツ式の編制と訓練を施された'''徳械師'''([[国民革命軍ドイツ訓練師団|ドイツ式師団]])の定員は1万4千人となっており<ref>[[:en:German-trained_divisions]]</ref>、他の師団も徐々に定員の増強が図られた。新編団は抗日戦争前に再編の標準構成と異いしる形で編制されたものであり、装備と部隊構成がやや改は'''編師'''(新編師団)と称されていた。師団の大半はその充足率が低く、前線に投入されて稼働状態になる際は他の師団が複数個編入され兵員を追加して数合わせされる事が多かったので、同時に活動している実際の師団数はずっと少なかったとされる。国民革命軍は、国民党の精鋭師団と一般師団、地方軍閥の私設師団、共産党師団の寄せ集めであったので人数、装備、練度、規律に大きなばらつきがあった。1937年の総兵力は225万人、1941年は述べ380万人の兵士が動員されていた。
 
'''師'''は編制上の基本単位であり、'''教導團'''と呼ばれる模範部隊が置かれて全体の中核となり全兵員を教化した。師はそれぞれが独自に兵士の募集または強制徴募を行なって人数を揃えていた。師はほとんど歩兵で構成されたが、砲兵營(砲兵大隊)や工兵營(工兵大隊)が追加される事もあった。前線に出る時はほとんどの場合、戦術上の基本単位である'''軍'''の下に編入されて行動した。軍は複数個の師を動かし、それを支援する砲兵團(砲兵連隊)や工兵團(工兵連隊)などを加えて実働戦力を完成させた。軍は1945年までに120個が編制された。一定地域の攻略および防衛を目的とする作戦行動の中では複数の軍を連携させて継続する事が好まれており、複数個の軍をまとめた'''集團軍'''は作戦上の基本単位になった。連携とは本隊と別動隊の同時運用、最前線と後方待機の交替などを指した。
 
兵員の確保は強制徴募と募兵で行なわれており、市内の溜まり場で健康そうな若者を見つけると強制的に入隊させるような兵隊狩りが横行していた。手配師の周旋先が実は軍隊で向かった労働者たちがそのまま部隊に編入されてしまうような詐欺紛いの募兵も頻発していた。また、町区や村落に圧力をかけて一定数の男子を供出させる事もあった。「良い鉄は釘にならず、良い人は兵隊にならない」の言葉通り、後者の寡兵では食い詰め者やならず者ばかりが集まり、地方の部隊では[[匪賊]]の類がそのまま編入されてる事もあった。1936年から近代国家に倣った兵役制度が各都市に指示されたが戸籍の不備からほとんど機能していなかったと言われる。南京、上海、広州、武漢では比較的ましな若者が得られたとされ、また広西省で組織された部隊は勇敢だとの評判を取った。兵士への給与の支払いと食糧の支給は滞る事が多く、住民からの徴発と略奪行為が横行していた。暴虐行為も頻繁に起き、殺人も珍しくなかったと言われる。部隊編入時に支給された小銃を売却してしまう者もおり、次の日には手ぶらになっている兵士も時折見られたという。こうした規律の低さから兵士たちの戦意も低く、何時でも逃げ出せるように着替え用の私服(便衣)を持つ者も多かった。彼らを信用していない指揮官たちは[[督戦隊]]を頻繁に組織して後方から監視させ、持ち場を離れる者を容赦なく射殺していた。同様の目的で兵士を入れた[[トーチカ]]に外から鍵を懸けたり、[[塹壕]]に配置した兵士を鎖で繋ぎ止めることも行なわれた。そのため、西洋の軍事評論家の多くは国民革命軍が全体として20世紀の軍隊というより19世紀を思い出させるものであるとの印象を持った<ref>p.5 http://www.history.army.mil/brochures/72-38/72-38.htm</ref>。
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== 編制序列 ==
国民革命軍を構成する編制単位は以下の通りである。'''戦区'''は[[日中戦争]]が始まった1937年7月から設置され、当初は中国全土を5区に分けてそれぞれが複数の集団軍を統括した。1938年末以降は10区、1945年以上は12区まで増やされていなった。戦区内の兵力が増えると更に区分けされて'''兵団'''が設けられた。兵団は地名が冠せられるか戦区内での通し番号が振られた。1944年末に設置された[[中国陸軍総司令部]]は戦区と同等であり、インドシナと華南方面で米英陸軍と共同するものとされた。[[中国陸軍総司令部]]下の方面軍は兵団と同等であり複数の集団軍を指揮した。
 
#'''国民党軍事委員会'''
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#'''班''' -- 分隊
 
編制上の基本単位は'''師'''であり、それぞれが独自に兵員の募集または強制徴募を行なって人数を揃える仕組みとなっていた。各師は通常2個の旅ナンバーと4個の團ナンバーを連番で軍中央から与えられており、師の全兵員は師長の裁量で分割され、前述のナンバーを振られて旅と團が作られていた。ナンバーは全軍中で一意なものだった。團は連隊に相当するが、日本の様に各郷土ごとに組織されて下から師団を組み立てるものではなく、師を分割して上から組織される点で異なっていた。なお、砲兵や工兵および機甲部隊などの團は軍中央の下で計画的に組織された。戦術上の基本単位は'''軍'''であり、通常2個の師を砲兵團と工兵團の支援下で連携させて実働戦力を完成させた。作戦上の基本単位は'''集團軍'''であるだった
 
指揮官の称号は、行営は主任、戦区は司令長官、兵団と集団軍は総司令、路軍と方面軍は総指揮で、当時は日本式に倣っていた。他は軍団長、軍長、師長、旅長、團長であった。