「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」の版間の差分

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1918年11月13日、イスタンブールの[[ハイダルパシャ駅]]に着いたムスタファ・ケマルは、停泊する戦勝国艦船を目の当たりにした。1919年4月、{{仮リンク|シェヴケト・トゥルグート・パシャ|en|Turgut Pasha}}、[[ジェヴァト・チョバンル|ジェヴァート・パシャ]]、[[フェヴズィ・チャクマク|ムスタファ・フェヴズィ・パシャ]]は秘密裏に会談を持ち、「三人の誓約」(''Üçler Misâkı'') と呼ばれる報告書を作って国土防衛のため軍監察官区の創設を決定した。4月末、ムスタファ・フェヴズィは国防大臣シャーキル・パシャに報告書を提出し、4月30日、国防省とスルタン・[[メフメト6世]]は、参謀総長の承諾を受けた決定を承認した<ref>Zekeriya Türkmen, ''Mütareke Döneminde Ordunun Durumu ve Yeniden Yapılanması (1918-1920)'', Türk Tarih Kurumu Basımevi, 2001, ISBN 975-16-1372-8, p. 105. {{Tr icon}}</ref>。そして、イスタンブールに第1軍監察官としてムスタファ・フェヴズィ・パシャが、コンヤにユルドゥルム軍監察官(後に第2軍監察官)として{{仮リンク|ジェマル・メルスィンリ|en|Cemal Mersinli|label=メルスィンリ・ジェマル・パシャ}}が、エルズルムに第9軍監察官(後に第3軍監察官)としてムスタファ・ケマル・パシャが、ルーメリ軍監察官として[[ヌーレッディン・パシャ]]が派遣され、第13軍団が国防省直属となる計画であった<ref>Zekeriya Türkmen, ''Mütareke Döneminde Ordunun Durumu ve Yeniden Yapılanması (1918-1920)'', Türk Tarih Kurumu Basımevi, 2001, ISBN 975-16-1372-8, p. 106. {{Tr icon}}</ref>。この計画に従い、ムスタファ・ケマル・パシャは、東部アナトリアに派遣されることになった。5月15日、ムスタファ・ケマル・パシャは、ユルドゥズ宮殿に伺候し、メフメト6世との最後の会見の後、5月16日、貨客船「[[バンドゥルマ (貨客船)|バンドゥルマ]]」で出航し、5月19日、[[サムスン (都市)|サムスン]]に上陸した。後にトルコ共和国は、サムスン上陸の日をもってトルコ祖国解放戦争開始の記念日としている。ムスタファ・ケマルはアナトリア東部の[[エルズルム]]、[[スィヴァス]]においてアナトリア各地に分散していた帝国軍の司令官たち、旧統一と進歩委員会の有力者たちを招集、オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げ、また「アナトリア権利擁護委員会」を結成して抵抗運動の組織化を実現する。
 
抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が[[1920年]][[3月16日]]、首都イスタンブールを占領すると、首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちは権利擁護委員会のもとに合同し、[[アンカラ]]で[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を開いた。彼らは自らを議会を解散させたオスマン帝国にかわって国家を代表する資格をもつ政府と位置付け、大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。ムスタファ・ケマルはアンカラ政府内で自身に対する反対者を着々と排除して運動内での権威を確立しつつ占領反対運動をより先鋭的な革命政権へとまとめ上げていった。また、[[モスクワ条約 (1921年)|モスクワ条約]]を結んで政敵エンヴェル・ベイを支援していた[[ソビエト連邦]]の同盟国になる一方で政権内に傀儡の{{仮リンク|公式トルコ共産党|tr|Türk Komünist Fırkası}}をつくり、[[共産主義]]者の勢力伸長を警戒した<ref>[http://arsiv.marksist.org/tarihte-bugun/12992-18-ekim-1920-ankara-hukumeti-tarafindan-sahte-turkiye-komunist-firkasi-kuruldu 18 Ekim 1920: Ankara Hükümeti tarafindantarafından sahte Türkiye Komünist Fırkası kuruldu | Marksist.org]</ref>。
 
この頃、アンカラ政府がアナトリア東部に支配地域を拡大する一方、西方からは[[ギリシャ軍]]がアンカラに迫っていたが、ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍を{{仮リンク|サカリヤ川の戦い|en|Battle of Sakarya}}で撃退した。この戦いの後、アンカラ政府のトルコ軍は反転攻勢に転じ、[[1922年]]9月には地中海沿岸の大商業都市[[イズミル]]をギリシャから奪還した。彼の有名な命令「全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ("Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz'dir. ileriİleri!"、この文の後の発言は検閲対象となったため不明)」は、このときに発せられたものである。
 
反転攻勢の成功により、アンカラ政府の実力を認めた連合国に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功した。同年10月、連合国は[[ローザンヌ条約|ローザンヌ講和会議]]にアンカラ政府とともにイスタンブールのオスマン帝国政府を招聘したが、ムスタファ・ケマルはこれを機に帝国政府を廃止させて二重政府となっていたトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようとはかり、[[11月1日]]に大国民議会に[[スルタン]]制廃止を決議させた。「スルタン=カリフ」の聖俗一致を改めさせ、世俗権力である「スルタン」の地位を廃し、[[11月19日]]に大国民議会に[[アブデュルメジト2世]]を象徴的なカリフに選出<ref>Hoiberg, Dale H., ed. (2010). "Abdümecid II". Encyclopedia Britannica. I: A-ak Bayes (15th ed.). Chicago, IL: Encyclopedia Britannica Inc. p. 23. ISBN 978-1-59339-837-8.</ref>させた後、インドのムスリムから届いた手紙を「政治行為」としてオスマン皇族を全て国外退去させた。翌[[1923年]]には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、[[10月29日]]に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。
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彼ら「ケマル主義」の擁護者たちの中でも、トルコ政治の重要な担い手の一部である[[トルコ軍|軍部]]の上層部は、「ケマル主義」「アタテュルク主義」を堅持することはトルコ共和国の不可侵の基本原理であるという考え方をしばしば外部に示してきた。[[1960年]]と[[1980年]]の二度に渡る軍部の[[武力政変]]も政治家のケマル主義からの逸脱是正、あるいはケマル主義の擁護を名目として実行されている。
 
[[ファイル:AnitkabirAnit MausoleumKabir Ataturk(6526103103).JPGjpg|thumb|200px|アンカラにあるアタテュルク廟(アヌト・カビール)]]
ムスタファ・ケマルの墓は、アンカラ市内の丘陵上に建設された[[アタテュルク廟]]にあり、毎日内外から多くの参拝者が訪れる、国家の重要な建造物になっている。毎毎年彼の命日である11月10日9時5分には、トルコ全土で2分間の[[黙祷]]が捧げられ、アタテュルク廟ほかなど記念式典が行われる。