「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」の版間の差分

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[[ファイル:Les Manoeuvres de Picardie.jpg|thumb|200px|ピカルディ大演習にて、オーギュスト・エドゥアール・ヒルシャワー大佐 ([[:en:Auguste Edouard Hirschauer|Auguste Edouard Hirschauer]]) の説明を聴くオスマン軍将校、ムスタファ・ケマル]]
 
ムスタファ・ケマルは、1899年3月14日、陸軍士官学校(陸士1317年入学組)に入学した。士官学校では、校長{{仮リンク|メフメト・エサト・ビュルカト|label=メフメド・エサド|en|Mehmet Esat Bülkat}}、{{仮リンク|オスマン・ヌーリ・コプタゲル|label=オスマン・ヌーリ|en|Osman Nuri Koptagel}}らの薫陶を受け、同期生の[[アリ・フアト・ジェベソイ|アリ・フアト]](ジェベソイ)、{{仮リンク|メフメド・アーリフ・ベイ|label=メフメド・アーリフ|en|Mehmet Arif Bey}}、[[サーリフ・ボゾク|サーリフ]](ボゾク)、[[フアト・ブルジャ|アフメド・フアト]](ブルジャ)、一期先輩の[[フェトヒ・オクヤル|アリ・フェトヒ]](オクヤル)、一期後輩の[[ヌーリ・ジョンケル|ヌーリ]](ジョンケル)、[[キャーズム・カラベキル]]、[[キャーズム・オザルプ|キャーズム・「キョプリュリュ」]](オザルプ)らと親交を深めた{{#tag:ref|士官学校時代にドイツ語とフランス語、ドイツ語を喋り原語のフランス民権思想書を読み、と英語もできたと云う。また、この間に[[山田宗有|山田寅次郎]]の教えを受けたとも言われる<ref>「[http://www.turkey.jp/2003/info03_4.html 日本とトルコの民間友好史 快男児・山田寅次郎]」 駐日トルコ共和国大使館 トルコの時代</ref>。|group="注釈"}}。1902年2月10日に同校を歩兵少尉として第8席の成績で卒業し、陸軍大学に進んだ。1905年1月11日に同学を参謀大尉として修了(陸大57期、5席)して、研修のため[[ダマスカス]]の第5軍に配属された<ref name="Genelkurmay2">T.C. Genelkurmay Harp Tarihi Başkanlığı Yayınları, ''Türk İstiklâl Harbine Katılan Tümen ve Daha Üst Kademlerdeki Komutanların Biyografileri'', GenkurmayGenelkurmay Başkanlığı Basımevi, Ankara, 1972, p. 2. {{Tr icon}}</ref>。士官学校在学中から[[アブデュルハミト2世]]の専制に反感を抱いており、ダマスカスで軍医{{仮リンク|ムスタファ・ジャンテキン|label=ムスタファ|en|Mustafa Cantekin}}や陸大同期の{{仮リンク|リュトフィ・ミュフィト・オズデシ|label=リュトフィ・ミュフィト|en|Lütfi Müfit Özdeş}}と共に「祖国と自由」([[:tr:Vatan ve Hürriyet|Vatan ve Hürriyet]]) を設立した。その後、無断でサロニカに戻り、マケドニア支部を設立したという。1906年にマケドニアでは、青年将校や下級官吏が、パリの[[統一と進歩委員会|統一と進歩協会]](青年トルコ党)の現地支部を設立し、1907年6月20日に上級大尉 ([[:en:Kolağası|Kolağası]]) に昇進したムスタファ・ケマルが[[1907年]]10月13日にサロニカの第3軍司令部に転属された<ref name="Genelkurmay2"/>ときには、「祖国と自由」の支部も統一と進歩協会に吸収されていたため、ムスタファ・ケマルも同協会に加入した。しかし、同協会では[[タラート・パシャ|タラート]]や、[[アフメト・ジェマル・パシャ|ジェマル]]が力を持っており、立憲革命の成功で、{{仮リンク|アフメド・ニヤーズィ・ベイ|label=レスネのニヤーズィ・ベイ|en|Ahmed Niyazi Bey}}や[[エンヴェル・パシャ|エンヴェル・ベイ]]らが「自由の英雄」として名声を獲得した。
 
1908年6月22日、ルメリア東部地区鉄道監察官に、1909年1月13日、第3軍隷下のサロニカ予備師団参謀長に任命された。[[1909年]]の{{仮リンク|3月31日事件|en|31 March Incident}}を鎮圧するため、サロニカの第3軍とアドリアノープル(現[[エディルネ]])の第2軍から部隊が「行動軍」の名の下にイスタンブールに派遣されたが、ムスタファ・ケマルは、第3軍から派遣された予備師団の作戦課長として参加し、11月5日に第3軍司令部に戻った。1910年9月6日から11月1日まで第3軍士官養成所に勤務した後、再び第3軍司令部に戻った。9月12日から18日まで実施された{{仮リンク|ピカルディ大演習|tr|Picardie Manevraları}}に武官として派遣された。この際、飛行機への搭乗を勧められたが同行した将校の警告に従って、乗らなかった。その後、搭乗予定であった飛行機が墜落し搭乗者全員が死亡した。ムスタファ・ケマルは一生涯、飛行機に乗らなかった。統一と進歩協会第二回大会で職業軍人による政治活動の禁止を再提案した<ref group="注釈">第一回大会でも[[キャーズム・カラベキル]]らにより提案されていた。</ref>。1911年1月15日、第5軍団司令部に配属され、第38歩兵連隊を経て、9月27日に参謀本部付となった<ref name="Genelkurmay2"/>。
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この頃、アンカラ政府がアナトリア東部に支配地域を拡大する一方、西方からは[[ギリシャ軍]]がアンカラに迫っていたが、ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍を{{仮リンク|サカリヤ川の戦い|en|Battle of Sakarya}}で撃退した。この戦いの後、アンカラ政府のトルコ軍は反転攻勢に転じ、[[1922年]]9月には地中海沿岸の大商業都市[[イズミル]]をギリシャから奪還した。彼の有名な命令「全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ("Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz'dir. İleri!"、この文の後の発言は検閲対象となったため不明)」は、このときに発せられたものである。
 
反転攻勢の成功により、アンカラ政府の実力を認めた連合国に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功した。同年10月、連合国は[[ローザンヌ条約|ローザンヌ講和会議]]にアンカラ政府とともにイスタンブールのオスマン帝国政府を招聘したが、ムスタファ・ケマルはこれを機に帝国政府を廃止させて二重政府となっていたトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようとはかり、[[11月1日]]に大国民議会に[[スルタン]]制廃止を決議させた。「スルタン=カリフ」の聖俗一致を改めさせ、世俗権力である「スルタン」の地位を廃し、[[11月19日]]に大国民議会に[[アブデュルメジト2世]]を象徴的なカリフに選出<ref>Hoiberg, Dale H., ed. (2010). "AbdümecidAbdülmecid II". Encyclopedia Britannica. I: A-ak Bayes (15th ed.). Chicago, IL: Encyclopedia Britannica Inc. p. 23. ISBN 978-1-59339-837-8.</ref>させた後、インドのムスリムから届いた手紙を「政治行為」としてオスマン皇族を全て国外退去させた。翌[[1923年]]には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、[[10月29日]]に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。
 
=== 大統領時代 ===
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== 関連文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[トゥルグット・オザクマン]]|others=[[新井政美]] 監修、[[鈴木麻矢]] 訳|year=2008|month=7|title=トルコ狂乱 オスマン帝国崩壊とアタテュルクの戦争|publisher=[[三一書房]]|isbn=978-4-380-08204-7|url=http://31shobo.com/2011/08/08/kari-15/|ref={{Harvid|オザクマン|新井|鈴木|2008}}}} - 歴史小説、原タイトル:''SuŞu cilginÇılgın turklerTürkler''。
*{{Cite book|和書|author=[[三浦伸昭]]|authorlink=|year=2006|month=2|title=アタチュルク あるいは灰色の狼|publisher=[[文芸社]]|isbn=4-286-00897-5|ref={{Harvid|三浦|2006}}
}} - 文献あり。歴史小説。