「相合元綱」の版間の差分
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'''相合 元綱'''(あいおう もとつな)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[毛利氏]]の家臣。[[毛利弘元]]の三男で[[庶子]]
== 生涯 ==
[[安芸国]]の[[国人]]領主・毛利弘元と側室の相合大方の子として誕生
[[永正]]14年([[1517年]])の[[有田中井手の戦い]]では、次兄の元就と共に[[武田元繁]]を討つなどの活躍を見せた
[[大永]]3年([[1523年]])7月、当主であった甥の[[毛利幸松丸]](興元の嫡男)が9歳で病死し、元就が後継者となった。これに対して[[坂広秀]]・[[渡辺勝 (戦国武将)|渡辺勝]]らは元綱を推していた
大永4年([[1524年]])4月{{Sfn|歴史群雄シリーズ9|1991|p=166}}、元綱らは元就への[[謀反]]を計画していたが、それに気付いた元就に先手を取られて[[志道広良]]率いる軍勢300の[[夜襲|夜討ち]]を受ける
===死後===
子の元範は幼少であったため罪を許された。後に敷名を名字とし、[[備後国|備後]]地方を拠点とする毛利家臣となった。
元綱派は尼子氏の有力家臣の[[亀井秀綱]]を後ろ盾としており、この内紛に[[尼子経久]]の意志が絡んでいることは明白であった
== 登場作品 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=|date=1991-2|title= [[歴史群像]]シリーズ9「毛利元就―西国の雄、天下への大知略―」|publisher=[[学習研究社]]|isbn=978-4051051464 |ref= {{SfnRef|歴史群雄シリーズ9|1991}} }}
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