「松田壽男」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
29行目:
最後の仕事と考えて「世紀の世界史」、「アトラス世界史」、[[平凡社]]全書の一冊として出版される予定の「天山路」を[[浅間山]]の麓で書き上げる。しかし「天山路」の原稿は平凡社の社内紛失で出版されなかった。転業を考えてあれこれ考えている時に、新潟高等学校時代の同級生の安中忠雄から「新編日向風土記」の執筆を勧められる。これが契機となり各地の[[風土記]]の作成をすることになる。[[1951年]](昭和26年)には、平凡社「世界歴史辞典」の執筆陣への参加を受ける。
 
[[1952年]](昭和27年)春に[[早稲田大学]]から文学部史学科の欠員を埋めたいと申し出を受ける。申し出があったため、これを受け早稲田大学教授として[[東洋史学]]に復帰する。[[1953年]](昭和28年)「漢魏の史書が伝えた天山諸国についての論証」で早大[[文学博士]]となる。同年「古代天山の歴史地理学的研究」が認められ毎日学術奨励金を授与される。[[1956年]](昭和31年)11月に早稲田大学の学生サークル活動としてアジア学会が誕生しその会長となる。[[1957年]](昭和32年)に、論文「丹生考」を作成。これが契機となり、[[矢嶋澄策]]に共同研究を提案され、主著『丹生の研究』となった。
 
[[1960年]](昭和35年)に「内陸アジア史学会」の初代会長に推挙される。また同年に「日本イスラム協会」の常任理事になる。[[1963年]](昭和38年)に「日本イスラム協会」理事長になる。[[1970年]](昭和45年)に「丹生の研究 - 歴史地理学から見た日本の水銀 -」が出版される。[[1974年]](昭和49年)に早稲田大学を定年退任、名誉教授となる。