「日本女子体育専門学校 (旧制)」の版間の差分

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=== 二階堂体操塾の開塾と発展 ===
[[ファイル:Swallow Pose from Nikaidou 5 Birds Exercise.png|thumb|二階堂五禽運動の「つばめ」のポーズ]]
1922年(大正11年)[[4月15日]]、1期生40数人{{#tag:ref|1期生は途中で辞めた者、親の反対や既に教師をしていて休職許可を取れずに諦めた者、資格の取れる臨時教員養成所に転校した者、途中入学した者などがいたため、正確な入学者数を特定できなかった{{sfn|西村|1983|pp=205-207}}。『わがちから』によると1923年(大正12年)3月時点の1期生は49人であった{{sfn|西村|1983|p=210, 212}}。|group="注"}}を迎えて二階堂体操塾(以下「体操塾」)が創立した{{sfn|西村|1983|pp=205-207}}。女子体育の研究機関と女子体育家の養成機関を兼ね、トクヨを中心として入塾生とともに創り上げていく共同体であった{{sfn|穴水|2001|p=136}}。当時の日本では、体操教師の社会的地位は低く、学校側の需要に対して体操教師の志願者は少なかった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=203}}。そのため1期生は、周囲の反対を押し切って入塾した人が多く、優れた資質を持った生徒が揃っていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=203}}。その1人に、戦後[[参議院議員]]となる[[山下春江]]がいた<ref name="yu69">「大学生 三代の歩み 30 女の園(八) たくましい体育教育 五輪入賞も生んだ特訓」読売新聞1969年10月28日付朝刊、9ページ</ref>。山下は、体操講習会で見たトクヨの脚が憧れの[[アンナ・パヴロワ]]([[バレリーナ]])のようにすんなりとしていたことをきっかけに入塾した<ref name="yu69"/>。トクヨは塾長、教師、舎監、事務員と1人で何役もこなし{{sfn|穴水|2001|p=23}}、多い日には1人で4時間の授業をこなした{{sfn|西村|1983|p=208}}。東京女高師が3年かけて教える内容を1年で叩き込むという方針だったため、授業をするトクヨも受ける生徒もエネルギッシュであった{{sfn|西村|1983|p=205, 210}}。授業内容は、[[号令]]の掛け方、脚や腕の鍛錬、4 - 5種類のダンス、[[ランニング]]、[[肋木]]などの器具を用いた[[器械体操]]などであった{{sfn|西村|1983|pp=208-209}}。ほかに「二階堂五禽運動」と称する、[[ツル]]や[[ツバメ]]など[[鳥]]の姿をまねた運動を取り入れていた{{sfn|西村|1983|pp=210-211}}。