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帰朝後は[[聖武天皇]]や[[光明皇后]]の寵愛を得て、天平7年(735年)中に[[従八位|従八位下]]から一挙に10階昇進して[[正六位|正六位下]]に、天平8年([[736年]])に[[外位|外]][[従五位|従五位下]]、天平9年([[737年]])に従五位上に昇叙と、急速に昇進する。翌天平10年([[738年]])に[[橘諸兄]]が[[右大臣]]に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した玄昉と共に重用され、真備は[[近衛兵#五衛府|右衛士督]]を兼ねた。天平11年([[739年]])8月、母を葬る<ref name="楊貴氏墓誌"/>。天平12年([[740年]])には、真備と玄昉を除かんとして[[藤原広嗣]]が[[大宰府]]で反乱を起こす([[藤原広嗣の乱]])。翌天平13年([[741年]])に[[東宮学士]]として[[皇太子]]・阿倍内親王(後の[[孝謙天皇]]・称徳天皇)に『[[漢書]]』や『[[礼記]]』を教授した。その後、天平15年([[743年]])には[[従四位|従四位下]]・[[春宮坊|春宮大夫]]兼春宮学士に叙任され、天平18年([[746年]])には吉備[[朝臣]]の姓を賜与され、天平19年([[747年]])に[[京職|右京大夫]]に転じて、[[天平勝宝]]元年([[749年]])には従四位上に昇った。
 
天平15年(743年)8月に孝謙天皇が即位して以降、[[藤原仲麻呂]]が権を握り、真備や玄昉、諸兄と対立する。玄昉は天平17年(745年)筑紫観世音寺別当に左遷され、翌年に同地で没した。真備も天平勝宝2年([[750年]])に格下の官かつ地方官である[[筑前国#国司|筑前守]]、次いで[[肥前国#国司|肥前守]]に左遷される。さらに翌年の天平勝宝3年([[751年]])には[[遣唐使|遣唐副使]]に任命され、翌天平勝宝4年([[752年]])に再び危険な航海を経て入唐。同地では阿倍仲麻呂と再会する。その翌年の天平勝宝5年([[753年]])に帰国の途に就くも、[[鑑真]]と同じく[[屋久島]]へ漂着、さらに[[紀伊国]][[太地町|太地]]に漂着後、無事に帰朝する。<ref>この帰途で、[[藤原清河]]や阿倍仲麻呂らの船は帰国に失敗。</ref>
 
帰朝後も中央政界での活躍は許されず、翌天平勝宝6年([[754年]])に[[正四位|正四位下]]・[[大宰帥|大宰大弐]]に叙任されて九州に下向する。天平勝宝8歳([[756年]])に[[新羅]]に対する防衛のため筑前国に[[怡土城]]を築き、[[天平宝字]]2年([[758年]])に大宰府で唐での[[安史の乱|安禄山の乱]]に備えるよう[[勅]]を受けた。その後、[[暦学]]が認められて、[[儀鳳暦]]に替えて[[大衍暦]]が採用された。