「トヨタ・クラウン」の版間の差分

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従来の[[貨物自動車|トラック]]などと共通の汎用[[フレーム形式 (自動車)|フレーム]]に代わる、低床の[[乗用車]]専用[[シャシ (自動車)|シャシ]]を開発した。[[サスペンション]]は、フロントがコイル[[ばね|スプリング]]による[[ダブルウィッシュボーン式サスペンション|ダブルウィッシュボーン式]]の[[独立懸架]]、リヤはリジッドアクスル(固定車軸)を[[リーフ式サスペンション|半楕円リーフスプリング]]で吊る[[車軸懸架]]方式である。この時代の日本は[[道路]]の[[舗装]]率が低く、また、補修も追いつかない状況であったことから、日本製乗用車で独立懸架の採用はほとんどなく、トヨタでも[[1947年]](昭和22年)の[[トヨペット・SA型小型乗用車|トヨペット・SA]]で採用したが不成功で、その耐久性が懸念されていた。クラウンでは長期間の走行[[実験]]によりこれを克服し、悪路に耐えうる水準の独立懸架を実現している。また後車軸は固定車軸となったが、[[東京大学]][[教授]]の亘理厚(わたり・あつし)らによる研究成果を活かし、重ね板バネの枚数を少なくして板間[[摩擦]]を減らすことで乗り心地を改善した「3枚バネ」とした。このため[[ショットピーニング]]によるバネ鋼の強化処理やショックアブソーバーの併用など、以後常識化した技術が導入されている。
 
同年末には、[[真空管]]式カー[[ラジオ]]や[[暖房|ヒーター]]など、当時における「高級車」としてのアコモデーションを備えた「'''[[トヨペット_(ブランド)|トヨペット]]・クラウン・デラックス'''」が登場している。
 
一方、[[日本のタクシー|タクシー]]向け[[営業車]]や[[商用車]]では、クラウンの独立懸架シャシに依然として耐久性への懸念があった。そこでトヨタでは、傘下の[[関東自動車工業]]に設計を依頼し、並行してセダン型の「'''[[トヨペット・マスター]]'''」、そして[[ライトバン]]と[[ピックアップトラック]]の「'''[[トヨペット・マスターライン]]'''」が開発され、同社で生産された。これらは前後輪ともバネ枚数の多い[[リーフ式サスペンション|リーフスプリングで固定軸を吊った]]構造とし、[[貨物自動車|トラック]]同様の高い[[強度]]の足回りを持たせたうえで、パワートレーンなどはクラウンと共通とした。しかし、クラウンがタクシー用途に導入されると独立懸架の耐久性に問題がないことが判明し、タクシー会社からも好評であったため、マスターは短期間で生産が中止され、マスターラインも後にS20系クラウンと共通のボディへ変更された。予想外の短期間で廃止となったマスターの[[プレス加工|プレス]][[金型|型]]は、初代[[トヨタ・スタウト|スタウト]]や初代[[トヨタ・コロナ|コロナ]]のボディに多くが流用され、損失を最小限に抑えた。
* [[1955年]](昭和30年)1
** 1月1日 - 発売。
同年末には** 12月1日 - 、[[真空管]]式カー[[ラジオ]]や[[暖房|ヒーター]]など、この当時における「高級車」としてのアコモデーションを備えた'''[[トヨペット_(ブランド)|トヨペット]]・クラウン・デラックス'''」が登場している(RSD型)を追加
* [[1957年]](昭和32年) - ラウンド・オーストラリア・トライアル([[:en:Round Australia Trial|英語版]]。出場した[[ラリー]]の名称は[[モービル石油|モービル・ガス]]・トライアル。)に出場して完走。総合47位、外国賞3位の成績を残した。これがトヨタにおける[[モータースポーツ]]の歴史の始まりである。
* [[1958年]](昭和33年)10月 - [[モデルチェンジ|マイナーチェンジ]]。型式がRS型からRS20型に変更され、エクステリアの意匠変更に伴うクラウン初の大規模なフェイスリフトが実施されたほか、[[オーバードライブ]]機構が採用された。[[1959年]]10月には、[[トヨタ・C型エンジン (2代目)|C型]][[ディーゼルエンジン]]搭載車(CS20型)が追加されたが、これは日本製市販乗用車で初の[[ディーゼル自動車|ディーゼル車]]となった。ただし生産は少数に留まり、2代目モデルへフルモデルチェンジする直前1961年3月まで生産された。
* [[1960年]](昭和35年)10月 - マイナーチェンジ。[[小型自動車|小型車規格]]の変更・拡大(全長×全幅×全高・4,300mm×1,600mm×2,000mm以下→4,700mm×1,700mm×2,000mm以下、ガソリンエンジンの総排気量・1,500cc以下→2,000cc以下)に伴い、再び型式が変更(RS20型→RS21型)。、また、デラックスに3R型1.9Lエンジンを搭載した1900デラックス(RS31D型)が登場。また、同時に「トヨグライド」と名付けられた2速[[オートマチックトランスミッション]]を搭載したAT車を追加。
* [[1961年]](昭和36年)4月 - 1900スタンダード(RS31型)を追加。これ伴い、ディーゼル車、および1.9Lモデル(1900スタ5Lガソリダード、RS31型)追加全廃
; 輸出仕様
* 1957年(昭和32年)10月 - 当時のトヨタ自動車工業と[[トヨタ自動車販売]]の共同出資により設立された現地法人、米国トヨタ自動車(現在の[[:en:Toyota Motor Sales, U.S.A., Inc.|Toyota Motor Sales, U.S.A., Inc.]], TMS)から発売。トヨタの対米[[輸出]]車第1号であり、[[対面交通|左運転席]]仕様である。搭載エンジンは当初の1.5 Lでは出力不足が著しく、普及しつつあった州間[[ハイウェイ]]の[[ランプ (道路)|ランプ]]の上り坂をまともに登れないほどだった。後にエンジンは1.9 Lに変更されたが、連続高速運転での[[オーバーヒート]]は収まらず、シャシの操縦安定性も危険なレベルと評された。ユーザーから「[[冬]]の朝は、[[鉛蓄電池|バッテリー]]が上がって始動できない」と苦情が殺到するなど[[電装]]系の信頼性も低かった。結局、当時の日本車は米国車と技術的な格差が大きすぎ、トヨタは1960年(昭和35年)に対米輸出をいったん停止している<ref group="注釈">ごく初期に輸出されたクラウン。記事:[http://www.toyota.co.jp/Museum/data/a03_09_2.html#1 トヨタ博物館 大衆化のための技術開発ページ]</ref>。販社と[[自動車ディーラー|ディーラー]]を立ち上げたものの、肝心の商品がなくなってしまい、改良後のクラウンと[[トヨタ・コロナ#2代目 T2#型(1960年 - 1964年)|ティアラ]]で輸出を再開するまでの間、[[トヨタ・ランドクルーザー#20系(1955年-1960年)|ランドクルーザー]]のみで繋ぐことを余儀なくされた。