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信蕃は当初から信玄に[[信濃国]][[先方衆]]として仕え、信玄の死後は引き続き[[武田勝頼]]に仕えた。[[永禄]]11年(1568年)12月、武田氏の[[駿河侵攻]]で駿府に乱入した軍勢の中に信蕃の名も見える。[[元亀]]3年(1573年)の[[三方ヶ原の戦い]]にも参陣し、[[天正]]3年([[1575年]])5月21日の[[長篠の戦い]]の時期には[[遠江国]][[二俣城]]<ref>[[静岡県]][[浜松市]][[天竜区]]。</ref>の守将を務めた父・[[芦田信守]]と共に、信蕃兄弟も籠城し抵抗した。
長篠の戦いで武田軍が大敗し[[徳川家康]]率いる徳川軍が反攻して来ると、僅かな手勢で堅固に守った。この間に病床にあった信守は死去する。信蕃が守将となり、弟の信幸と共に籠城が続行された。徳川方は攻めあぐね、城の周囲に複数の砦を築き、兵糧攻めにするしかできなかった。実に半年にも亘った攻防の末、結局力攻めでは落せないと判断した徳川方の申入れと長篠の戦いで敗れた主君の武田勝頼の「甲斐に引き挙げろ」との命令により、徳川方の「全員の助命を条件」に開城、[[高天神城]]<ref>静岡県[[掛川市]]
=== 天正壬午の乱における動向 ===
天正10年([[1582年]])3月、長篠の戦いで多くの宿将を失って、武田勝頼の求心力が低下し離反者が出ていた中、[[織田信長]]による[[甲州征伐]]が始まると、信長に呼応した徳川家康に田中城を攻められたが、またしても堅固に備えを立てて落城の気配も見せなかった。攻めあぐねた家康は[[成瀬正一 (戦国武将)|成瀬正一]]に命じて開城の説得に当たらせるが、信蕃はこれを拒絶。さらに籠城を続けるうちに織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族である[[穴山信君|穴山梅雪]]からの開城を勧める書簡を受けてから、ようやく
同年6月2日、[[本能寺の変]]が起こり、[[北条氏直]]との戦い([[神流川の戦い]])に敗れた[[滝川一益]]が同20日に家臣・[[道家正栄]]の守る[[小諸城]]<ref>長野県[[小諸市]]。</ref>に入ると、22日に信蕃は一益と対面し、一益を円滑に本領の伊勢長島へと退去させるために佐久・小県郡の人質を集め、一益に引き渡した<ref name="hirayama">{{Harvnb|平山}}</ref>。この人質には嫡子・[[依田康国]]や[[真田昌幸]]の母・[[恭雲院]]が含まれていたという。一益は27日に小諸城を信蕃に明け渡して旅立ち、28日には諏訪から木曽谷に入り、当初の約定通り佐久・小県郡の人質を[[木曾義昌]]に委ね、7月1日に伊勢長島に帰還した。9月17日、佐久・小県郡の人質は、義昌から徳川家康に引き渡された<ref name="hirayama"/>。
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