「日本女子体育専門学校 (旧制)」の版間の差分

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|所在地
|style="background:white"|[[東京府]][[豊多摩郡]][[代々幡町]][[代々木]]山谷<br /> →[[東京]][[荏原郡世田谷区]][[松沢村 (東京府世田谷区)|松沢村]]
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|校長
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|style="background:white"|松徳会
|}
'''日本女子体育専門学校'''(にほんじょしたいいくせんもんがっこう)は、[[東京]][[荏原郡世田谷区]][[松沢村 (東京府世田谷区)|松沢村]]に存在した[[旧制女子専門学校]]。[[日本女子体育短期大学]]{{sfn|掛水|2018|p=223}}・[[日本女子体育大学]]の前身となった[[学校]]である{{sfn|西村|1981|p=175}}。[[二階堂トクヨ]]が[[個人]]で開設した'''二階堂体操塾'''(にかいどうたいそうじゅく)を起源とする{{sfn|西村|1981|pp=172-175}}。
 
[[代々木]]の[[民家]]を改修した小さな塾舎で{{sfn|西村|1983|pp=196-218}}女性体操教師の育成を目的に設立し{{sfn|穴水|2001|p=136}}、1期生からほぼ全員が[[旧制中等教育学校|中等学校]]へ就職した{{sfn|西村|1983|pp=212-213}}。[[関東大震災]]を契機に松原へ移転し{{sfn|西村|1983|p=220}}、昭和初期には日本最大の女性体操教師養成機関に発展した{{sfn|掛水|2018|p=228}}一方で、[[人見絹枝]]が卒業して以降は[[スポーツ]]を志す生徒が多く入学し、女性[[アスリート]]の養成機関を兼ねるようになった{{sfn|勝場・村山|2013|p=13, 53, 96}}。重要な教材として[[ダンス]]を採用し{{sfn|村山|2004|p=56}}、女性らしい健康な心と体づくりを掲げて{{sfn|勝場・村山|2013|p=23}}厳格な教育を施した{{sfn|西村|1983|pp=237-238}}。
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== 校舎・校地 ==
=== 代々木時代 ===
[[代々幡町|代々木]]の体操塾は、4つの建物で構成されていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=201}}。うち2棟は[[借家]]で、この2棟の間に[[四畳半]]3間の新棟を建設した{{sfn|西村|1983|pp=200-201}}。また庭には雨中体操場(体育館)兼寄宿舎とするための新棟を建設した{{sfn|西村|1983|p=201}}。4棟合わせて120畳ほどあり、[[電灯]]28基を設置していた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=201}}。寄宿舎は4部屋あり、教室としても利用された{{sfn|西村|1983|p=207}}。中でも21畳の大部屋は、学科教室、[[講堂]]、[[体育館]]、[[音楽室]]、自習室、[[食堂]]、[[寝室]]と7種の用途があったことから「[[七面鳥]]のお部屋」と呼ばれた{{sfn|西村|1983|p=207}}
 
塾舎の前後に庭があり、表の庭(20余坪≒70 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]])を運動場に、裏庭(4坪≒13 m<sup>2</sup>)を物干し場に充てていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=201}}。トクヨは資金難ながら体操器具だけは揃えようと考え、[[肋木]]・上下棒・[[跳び箱]]などスウェーデン体操の器具を購入し、運動場に所狭しと器具を置いたが、収納スペースはなく雨ざらしにせざるを得なかった{{sfn|西村|1983|p=209}}。運動場の不足を補うため、代々木練兵場を「黙認」の形で使わせてもらっていた{{sfn|西村|1983|p=209}}。
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=== 松原時代 ===
[[ファイル:JWPSPE school Building.jpg|thumb|松原の校舎]]
[[松沢村 (東京府)|松原]]に移転したばかりの頃は、10教室と1,000坪(≒3,305.8 m<sup>2</sup>)の運動場を有していた{{sfn|西村|1983|p=223}}。人見絹枝が入塾した時の体操塾がこれで、[[京王線]]松原駅(現・[[明大前駅]])から畑地の中を抜け、竹やぶに囲まれた地にあった{{sfn|勝場・村山|2013|p=22}}。校舎はバラックで、想像とのあまりの違いに人見は落胆したという{{sfn|勝場・村山|2013|p=22}}。1924年(大正13年)に雨覆い体操場兼講堂を建設し{{sfn|西村|1983|p=224}}、人見絹枝のために急きょ運動場を2倍に拡張した{{sfn|勝場・村山|2013|p=25}}。1925年(大正14年)には運動場を5,000坪(≒16,529 m<sup>2</sup>)まで拡張、生理解剖室・研究室を建設した{{sfn|西村|1983|p=224}}。それでも設備が不足したので、東京帝国大学(東大、現・[[東京大学]])に生徒を連れて解剖の見学に出かけたり、[[慶応義塾大学]](慶大)や東京女子音楽体操学校から備品を借用して文部省の審査をやり過ごしたりしていた{{sfn|西村|1983|p=228, 239}}。
 
[[1933年]](昭和8年)に体専を訪問した記者によると、玄関を入ってすぐのところに「去華就実」と書かれた額が飾られ、その横には「面会時間30分」、「商品紹介御断り」と書かれた紙が貼ってあったという<ref name="yh1933">"スポーツ界 人物風景 C スポーツ兩性觀 「陸のヲバちゃん」二階堂女史 熱・熱・『…よ』と力んで」読売新聞1933年2月24日付朝刊、5ページ</ref>。3坪(≒9.9 m<sup>2</sup>)ほどの部屋を書斎兼校長室としており、洋風の室内には「正義無敵」の額を掲げていた<ref name="yh1933"/>。校長室の入り口にはカーテンがかけられ、中の様子が窺えないようになっており、生徒が入室する際は一声かけて入室許可を得た{{sfn|穴水|2001|p=25}}。
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== 関連項目 ==
* [[旧制女子専門学校]]
* [[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]