「日本女子体育専門学校 (旧制)」の版間の差分

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戦中のアスリート養成中止について。
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専門学校昇格と前後して、[[1927年]](昭和2年)にトクヨは「選手育成の試み」を開始した{{sfn|萩原|1981|p=180, 195}}。[[1928年アムステルダムオリンピック]]で人見絹枝が[[1928年アムステルダムオリンピックの陸上競技・女子800m|800m]]にて[[銀メダル]]を獲得すると、日本各地の女学校に現れた「人見二世」は人見に憧れて続々と体専に入学した{{sfn|勝場・村山|2013|p=13, 53, 96}}。[[1932年ロサンゼルスオリンピック]]には卒業生1人、在校生2人が出場、続く[[1936年ベルリンオリンピック]]にも卒業生1人、在校生2人が選ばれ、卒業生の[[松澤初穂]]がコーチ兼トレーナーとして派遣された{{sfn|勝場・村山|2013|p=96, 145}}。こうしてアスリートが次々と入学してくるようになった体専は[[明治神宮競技大会]]でも活躍が目立ち、「女子スポーツのメッカ」と呼ばれるほどになった{{sfn|勝場・村山|2013|p=96}}。
 
念願の専門学校となったものの、体専は順調な発展を遂げることはできなかった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=209}}。定員を150人に増やしたところ、開校初年は約130人、2年目は約70人と[[定員割れ]]してしまった{{sfn|西村|1983|p=229}}。その理由を教師の資格が取れないからだと考え、[[1927年]](昭和2年)[[8月24日]]に文部省へ中等教員無試験検定資格認定の許可を申請し、[[1928年]](昭和3年)[[6月4日]]に許可された{{sfn|西村|1983|p=229}}。女子の中等教員無試験検定の許可校は、東京女子音楽体操学校、中京高等女学校(家事体操専攻科のみ、現・[[至学館高等学校]]・[[至学館大学]])に次ぐ3校目であった{{sfn|掛水|2018|pp=216-217}}。これにより[[1929年]](昭和4年)以降の卒業生は体操科免許の無試験検定の対象となったが、あくまでも「検定」なので、不合格となる可能性もあった{{sfn|掛水|2018|p=228}}。念願の無試験検定資格を得たものの、トクヨのもくろみは外れ、1学年の人数は40 - 50人台で低位安定した{{sfn|穴水|2001|p=157}}。真寿は、[[日中戦争]]が暗い陰を次第に濃くしていったことがその理由の1つであると分析した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=209}}。[[1936年]](昭和11年)[[11月3日]]にトクヨは「奮起せよ!日本女選手!」と題した檄文を出し、「人見嬢に続かしめ」る日本女性を「日本のほこり」のために体専で育成することを宣言し、成績優秀者に特別優遇を行うと発表した{{sfn|西村|1983|pp=250-251}}。ところが[[1938年]](昭和13年)に[[国家総動員法]]が施行され、[[1940年東京オリンピック]]の開催返上が決定すると、翌[[1939年]](昭和14年)からアスリートへの優遇を廃止し、対外試合への出場も禁止した{{sfn|勝場・村山|2013|p=148}}。男性体操教師が次々と[[召集]]され戦場へ送られる社会情勢では、選手育成よりも優秀な女性体操教師の育成に集中すべきであるとの判断からだった{{sfn|勝場・村山|2013|p=148}}。
 
自分の身を国家に捧げるというトクヨの崇高な志は、時々の政策に引っ張られやすいという弱点を持っており、[[陸軍現役将校学校配属令]]が出された時には「ご出陣を祝ひ奉る」と賛美する文章を発表し、[[軍人]]への慰問のために校内に[[花畑]]を造成した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=248-249}}。当時のトクヨを、体専教師の今村嘉雄は「よい軍国婆さん」と表現した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=248}}。こうした中でトクヨは学校経営の実務を名誉校長の二宮文右衛門に任せ{{sfn|西村|1983|p=248}}、校内に引きこもり、病気がちとなった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=208-209}}。多くの篤志家の寄付に支えられ、優秀な塾生に囲まれて幸福だった創立当初とは異なり、この頃には親しい人が多く離れてしまったと見え、真寿に「自分なんぞは今に誰からも相手にされなくなって、電信柱の蔭にひとりでうずくまっているかもしれない」という苦しい胸の内を明かしている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=201-210}}。
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このため、人見絹枝も入塾当初は良くも悪くもトクヨに目を付けられ、寸暇を見て自主練習に励むほかなかった{{sfn|萩原|1981|p=179}}。人見は夏休みに帰郷して陸上競技の講習会に参加し、学校へ戻ってすぐ高熱を出すと「だから云わないことはないでしょう」と講習会に出たことをトクヨに叱られてしまった{{sfn|萩原|1981|pp=179-180}}。(言葉とは裏腹に、トクヨはこの時付きっ切りで人見を看病した{{sfn|勝場・村山|2013|p=24}}。)しかし、人見が岡山県から県大会出場を要請されたことを知ってトクヨは急展開し、アスリート養成が女子体育発展につながると認識するようになった{{sfn|勝場・村山|2013|pp=24-25}}。されど1925年(大正14年)の時点では、競技(スポーツ)は運動から生まれたものであり、本来の目的は体育であるとし、少数の選手を出すために多くの生徒を犠牲にするのは考えねばならぬことという持論を展開しており、まだアスリート養成には向かっていない<ref name="yh1925">「女の運動も 或程度まで 男と同じでよい 過激と云って左程 退けるには及ばぬ 二階堂女塾長 二階堂トクヨさん語る」読売新聞1925年11月11日付朝刊、7ページ</ref>。
 
トクヨが「選手育成の試みをする考へ」を示したのは1927年(昭和2年)になってからである{{sfn|萩原|1981|p=180, 195}}。1933年(昭和8年)には女子スポーツは無害であると熱く語るようになっており、「人見さんが生きてるといいんですがねえ」とこぼした<ref name="yh1933"/>。また18 - 19歳頃の男性がメソメソしているのは男女交際を知らないからであり、朗らかな交際にはスポーツが最適だと、すっかりスポーツ礼賛の姿勢に転換している<ref name="yh1933"/>。スポーツ団体では[[日本学生陸上競技連合]]のファンであり、[[日本陸上競技連盟]](陸連)との合併には最後の1人になるまで反対すると述べた<ref name="yh1933"/>。特に陸連が[[1936年ベルリンオリンピック]]の選手候補に{{仮リンク|広橋百合子|en|Yuriko Hirohashi}}を選んでおきながら、最終選考で落選させた{{#tag:ref|広橋は毎年、走高跳の日本女子十傑でトップに入る選手であったが、最終選考会で{{仮リンク|西田順子|en|Junko Nishida}}に敗れて代表の座を逃した{{sfn|勝場・村山|2013|p=134}}。|group="注"}}ことに対して選考が不公平だと激怒し、今後一切、陸上競技大会に体専の生徒を補助員として協力させないと宣言した{{sfn|勝場・村山|2013|pp=134-135}}。
 
人見は著書『女子スポーツを語る』(1931年)の中で、偉大な選手を育成するためにプロのコーチを育成する必要があると説いた{{sfn|萩原|1981|pp=194-195}}。トクヨは1927年(昭和2年)の体専の紹介記事で、卒業生の進路の1つとして「希望に依り選手若しくは『コーチャー』たらしむ」と記載した{{sfn|西村|1983|p=230}}。コーチ育成のための科目である「女子競技選手指導法」は、他の体操科資格が取得できる学校にはない独自の科目であった{{sfn|掛水|2018|p=242}}。
 
1936年(昭和11年)には、「人見嬢に続かしめ」る選手を育成するために、体専で特別優遇を行うことを発表した{{sfn|西村|1983|pp=250-251}}。しかし時代が戦争へと傾斜していく中で、1939年(昭和14年)に優遇策を廃止し、選手育成も中止した{{sfn|勝場・村山|2013|p=148}}。この時、選手の試合出場禁止も言い渡された{{sfn|勝場・村山|2013|p=148}}が、トクヨの死後である[[1943年]](昭和18年)[[3月21日]]に日本学徒体育振興会主催の大学高等専門学校行軍関東大会に体専チームが出場し、優勝したという記録がある<ref>「學徒誇りの健脚 男子は高體、女子は體専に栄冠」読売新聞1943年3月22日付朝刊、2ページ</ref>。
 
=== 生徒への配慮 ===