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入社直後から常務取締役までほぼ一貫して原料購買など業務畑を歩み、その間、[[新日鐵住金釜石製鐵所|釜石製鐵所]]には二度勤務する。財務担当の常務時代に[[固定費用|固定費]]削減を訴え、[[高炉]]13基のうち5基を休止するなど徹底的な合理化を推進。社長就任時には「創業的大リストラ」として3000億円のコスト削減を打ち出し、[[アジア通貨危機]]など鉄鋼需要の激減時にも経常黒字を維持する強固な経営体質を築いた。
 
時代から囲碁を好み、[[日本棋院]]総裁を務める。[[東京都立日比谷高等学校|都立日比谷高校]]の同窓会である如蘭会の会長も務めていたが、[[保田博]]にバトンタッチした。[[産業構造審議会]]など多くの政府関係委員を歴任し、経団連会長を務めるなど財界の大物論客として知られ、[[読売新聞]]解説面の『時代の証言者』や[[日本経済新聞]]『[[私の履歴書]]』などで自叙伝を連載している。
 
[[トヨタ自動車]]元社長の[[豊田達郎]]は東京都立第一中学校の同期。前任の新日本製鐵社長である[[齋藤裕 (実業家)|齋藤裕]]も中学の先輩。豊田達郎とは、新日本製鐵が[[トヨタ自動車]]重視の方針をとっていたことから、新日本製鐵とトヨタ自動車の会合後に、[[宴会]]をともにすることも多く、後年一中人脈の有益さを振り返ている。同窓会である如蘭会会長も務めた。1998年、豊田達郎の兄で、中学の先輩にもあたる[[豊田章一郎]]から電話で依頼を受け、豊田章一郎の後任として[[関本忠弘]]を制して昭和生まれで初の経団連会長となる。
 
== 略歴 ==