「樋口兼光」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Hachidairyuou (会話) による ID:71918992 の版を取り消し。理由はノート:中原兼遠に詳述
タグ: 取り消し
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
26行目:
乳母子として義仲と共に育ち、弟の兼平と共に忠臣として仕える。[[治承・寿永の乱]]における[[治承]]年([[1180年]])の義仲挙兵に従って各地を転戦した。[[寿永]]2年([[1183年]])の[[倶利伽羅峠の戦い]]などで重要な役割を果たし、[[伊勢平氏|平家]]を都から追い落として7月に義仲と共に入京した。9月に[[後白河天皇|後白河法皇]]の命により、義仲は[[水島の戦い]]で西国へ下るが、京の留守を兼光に命じ、法皇の監視に当たらせている。法皇と義仲が対立した[[法住寺合戦]]で法皇を拘束するなど義仲軍の中心人物として活躍した。
 
[[元暦]]元年([[1184年]])正月、義仲に離反した[[源行家]]・[[源義資]]を討伐するため、[[河内国]]石川へ500騎で出陣するが、その間に鎌倉軍が到着し、敗れた義仲は[[粟津の戦い]]で討ち死にした。翌日、義仲の死を知った兼光は京へ戻る道中で兼光の母親生家、児玉党の説得で武装解除し命を嘆願すると[[源義経]]の軍勢に生け捕られた。26日、義仲らの首と共に[[検非違使]]に身柄を引き渡され、2月2日、[[渋谷高重]]によって斬首された。
 
『[[吾妻鏡]]』によれば、兼光は[[武蔵国]][[児玉党]]の人々と親しい間であったため、彼らは自分達の勲功の賞として兼光の助命を訴え、義経が朝廷に奏聞したが、兼光の罪科は軽くないとして許されなかったという。