「勝川春英」の版間の差分

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Berlin1888 (会話 | 投稿記録)
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== 来歴 ==
[[勝川春章]]の門人。本姓は磯田、名は久次郎。九徳斎、旭徳斎と号す。江戸に生まれ新和泉町の家主をしていた。家系などは不詳。早くに春章の門人となり、[[安永]]7年(1778年)に17歳で初作を描く。細判、間判の作品が多く見られ、雲母摺の大首絵「三代目市川八百蔵」など[[東洲斎写楽|写楽]]と相前後して役者絵を世に出した。[[寛政]]4年(1792年)に江戸の[[蔦屋重三郎 |耕書堂]]から「大坂中の芝居」と題された四枚続(あるいは五枚続)を版行しており、同年正月に上方に上がったとされる<ref>{{仮リンク|アンドリュー・ガーストル|en|Andrew Gerstle}}、[[矢野明子]]編『流光斎図録 上方役者似顔絵の黎明』[[武庫川女子大学]]関西文化研究センター、2009年3月、p.42</ref>。寛政7年(1795年)に江戸の[[都座]]、[[桐座]]、[[河原崎座]]の三座で『仮名手本忠臣蔵』が競演された時には、春英は都座と桐座の芝居を描き、岩戸屋から「三代目澤村村宗十郎の加古川本蔵」を版行している。ほかに歌舞伎の所作事に見立てて描いた美人画の[[錦絵]]「おし絵形」がある。享年58。墓所は[[台東区]][[西浅草]]<!--1-4-15-->の善照寺、法名は釈春英。男女二子をもうけ長女は夭折し、長男の斧二は画業に就かなかったという。門人に[[勝川春章 (2代目)|二代目勝川春章]]、[[勝川春好 (2代目)|二代目勝川春好]]、[[勝川春徳]]、[[勝川春亭]]がいる。なお勝川春英女という絵師もいるが春英との関係は不明。
 
春英の役者絵は師の春章の亡き後を継いで寛政の前・中期に絶頂期を見せており、その画業は[[歌川豊国]]、[[東洲斎写楽]]にも影響を及ぼしている。また[[武者絵]]や[[相撲絵]]を得意とし、さらに美人画も手がけ狂歌本や[[肉筆画]]も描いた。肉筆画では美人画が多く、切れ長の眼に顎の辺りにふくらみのある「張り」と、愛嬌ある容貌を具えている点が春英美人の特色である。春章門下の中で同門の[[勝川春好]]と競い合い活躍した逸材であった。