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天文20年([[1551年]])、[[陶晴賢]]の謀反により大内義隆が自害すると([[大寧寺の変]])、[[大友義鎮|大友宗麟]]に属した。
 
[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])、大内氏が滅んで[[毛利氏]]の勢力が北九州にまで及んでくると、文種は[[毛利元就]]の調略に応じて大友氏に反旗を翻した。このため7月、宗麟は[[立花道雪]]と[[臼杵鑑速]]に2万の兵を預けて、文種討伐を命じる。文種は[[秋月城]]を捨て、晴種のいた[[古処山城]]で徹底抗戦したが、衆寡敵せず、晴種と共に城中にて自刃した。しかし、残りの子供達は家臣らに守られ、[[毛利氏]]の元に逃れるなどした。

文種・晴種父子の死により、秋月氏は一時滅亡し、ほとんどの所領を失うこととなった。残った所領は家臣の深江氏が死守している。
 
== 脚注 ==