「ヴァルター・ヴェーファー」の版間の差分

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== 来歴 ==
現[[ポーランド]]領の[[西プロイセポーゼ]]地方ヴィルヘルムスオルトに生まれる。祖父は[[プロイセン王国]]最高検察官を務めたカール・ゲオルク・ヴェーファー、父はベルリン植民銀行頭取を務めたアルノルト・ヴェーファーである。[[アビトゥーア]]合格後、士官学校に入る。[[第一次世界大戦]]中は柔軟防御を考案し、日増しに強まる連合軍の圧力から戦線をよく守った。そのため1917年に[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]元帥率いる陸軍最高司令部作戦部に転属となった。[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が退位を決断した際はその傍近くにあり、流血を避けるため[[オランダ]]への亡命を皇帝に勧めた一人であった。また[[ヴァイマル共和政]]で民主的に選出された権力者に皇帝同様に仕えるべきだと賛成した最初の士官の一人でもあった。
 
1919年、ヒンデンブルクの命により元参謀次長[[エーリッヒ・ルーデンドルフ]]の回顧録を筆記した。ついで第I軍管区参謀部に転属となったが、そこで[[カップ一揆]]に遭遇した。さらに[[バイエルン王国|バイエルン]]人以外では初めて第7師団参謀となり、[[ミュンヘン一揆]]にも遭遇した。ついで[[兵務局 (ドイツ陸軍)|兵務局]]に復帰し、1931年から陸軍教育部長を務めた。
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== 家族 ==
ヴェーファーの2人の息子は共に空軍士官として[[第二次世界大戦]]に従軍し、戦闘機パイロットだった次男ヴァルターは1945年4月に[[騎士鉄十字章]]を受章したが、敗戦直前に戦死した。
 
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[[Category:1887年生]]
[[Category:1936年没]]
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]
[[Category:ドイツ帝国の軍人]]
[[Category:ドイツ第三帝国の将軍]]
[[Category:ドイツのパイロット]]
[[Category:ポーゼン州出身の人物]]
[[Category:1887年生]]
[[Category:1936年没]]