「千葉荘」の版間の差分

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亥鼻城から突き出た砂嘴上に千葉の町の原型が築かれ、南端に亥鼻城・北端に尊光院(後の千葉妙見宮、現在の[[千葉神社]])が設けられ、両者のつなぐ参道沿いに町が形成され、参道はそのまま[[東海道]]とつながっていたと推定されている。丸井敬司は[[源頼朝]]の[[鎌倉]]の都市計画には[[千葉常胤]]期の千葉の町並が影響を与えたとする説を唱えている<ref>丸井敬司『千葉氏と妙見信仰』(岩田書院、2013年)P141-145</ref>。
 
[[建久]]年間に作成されたとみられる「香取社遷宮用途注進状」によれば、“千葉庄三百斛”の負担をしたことが記されており、同文書内に八十斛の負担をしたと記されている[[船橋御厨]]が200[[町歩|町]]の面積があった(『[[神鳳鈔]]』)とされているため、そこから算出しておよそ750町(約7.438[[平方キロメートル|km²]])の面積を有していたと推定され<ref>[[千野原靖方]]『千葉氏 鎌倉・南北朝編』([[崙書房出版]]、[[1995年]])P25-26</ref>、千葉郡のうち[[都川]]流域の池田郷(現在の千葉市中央区亥鼻・千葉寺町一帯)及び[[千葉郷]](同市[[稲毛区]]穴川・黒砂一帯)・[[三枝郷]](同市稲毛区作草部一帯)・糟○郷<ref>「かそり」、○は[[艸部]]に“依”</ref>(同市[[若葉区]]加曽利町一帯)の4郷を中心とした現在の千葉市中央部に比定されている<ref>[[福田豊彦]]『千葉常胤』([[吉川弘文館]] 人物叢書新装版、[[1987年]])P62</ref>。
 
鎌倉時代になると、千葉氏は下総国の[[守護職]]とともに千葉荘の[[地頭職]]を獲得し、千葉荘は[[請所]]とされて千葉氏の支配が確立された。後世になると、南北に分割されて「千葉北荘」「千葉南荘」と呼ばれたとみられている。同荘内には古くから千葉妙見宮や[[千葉寺]]などの多くの寺社が存在しており、千葉氏の手厚い保護を受けて栄え、下総国守護となった千葉氏の拠点として栄えた。