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プロ初登板は4月11日の対[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]戦([[平和台球場]])だったが、連続四球と安打を浴び、2失点で終わった<ref name="野球バカは死なず90-108"/>。この年は26試合で未勝利(4敗)に終わる<ref name="野球バカは死なず90-108"/>が、成長株として好評価を受け、翌年の先発ローテーションの一角として秋季キャンプでは「江本を先発入りさせるためのようなもの」とされた猛練習をこなした<ref name="野球バカは死なず90-108"/>。しかし、同年オフに[[高橋博士]]との交換トレードで、[[佐野嘉幸]]と共に[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]への移籍が決まり、入団後僅か一年で所属チームが変わることとなった。これについて江本は著書で、「いずれにしてもこのトレードは[[野村克也|野村さん]]の戦略、商売上手を示す伝説として語られるようになった。世間では江本は野村監督に発掘されて育てられたという伝説が流布しているが、これは違うと断言させて頂く」「少なくとも投げられる『ピッチャー・江本』に育ててくれたのは東映であり、(投手コーチの)土橋さんだ。一年目、東映で徹底的に鍛えられた。そこで[[マグマ]]のように蓄えられたパワーが2年目に噴き出すのは自然な流れ。勝てるピッチャー・江本にしたのが野村さんだった。ただし野村さんがただ者では無いことは事実だ」と記している<ref name="野球バカは死なず90-108"/>。
 
=== ホークス南海時代 ===
ホークス移籍南海へ入団した初日、グラウンドへリンカーンを乗りつけて降りた[[野村克也]]は、「お前ら、オレみたいに良い車乗りたかったらしっかり練習して頑張れや」と憎たらしい顔で言ったという。また、煙草を吸った野村から「お前なぁ、敗戦処理でよう投げてきよったけど…お前のボール、オレが受けたらお前は二桁勝つぞ」と言われ、背番号16を渡された。江本は、「東映よりは全然良かった。東映は恐ろしかった。[[張本勲|張本さん]]に[[白仁天|白さん]]に[[大杉勝男|大杉さん]]。南海は[[門田博光|門田]]とか同級生がいっぱいいたし、全然違和感なかった<ref>{{Cite book |和書 |title = 南海ホークス栄光の歴史 1938-1988 |year = 2012 |publisher = [[ベースボール・マガジン社]] |page = 34 |isbn = 9784583618876}}</ref>」「東映では49番でしたから、(16を渡されて)電気が走りました。人間って一言で変わるんですよ<ref name="阿川江本"/>」と語っている。野村の一言で発奮した江本は、{{by|1972年}}から先発ローテーションに加わり、背番号と同じ16勝を挙げ[[西岡三四郎]]と並ぶ南海のエース級投手へと成長した。{{by|1973年}}には開幕投手に抜擢され、12勝を挙げてチームの前期優勝に貢献、[[1973年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]第5戦(対[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]戦)においても9回二死・一打同点の場面で、代打本塁打世界記録保持者である[[高井保弘]]を迎えたところで、[[佐藤道郎]]に代わって登板して三振を奪い、胴上げ投手となった<ref>江本はこの時投球のための準備を全くしておらず、審判が運よくストライクを取ってくれたので助かったと後に著書で述べている。</ref>。日本シリーズ(対[[読売ジャイアンツ]]戦)においても第1戦の先発投手を野村から指名され、[[土井正三]]と[[森祇晶|森昌彦]]に本塁打を浴びたが、3失点で完投勝利を挙げた。しかし、第4戦では2回4失点(自責点は0)で敗れ、日本一は逃した<ref>野球バカは死なず、P143-144</ref>。{{by|1974年}}には[[1974年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも出場、第2戦では先発投手を務めた。
 
ところが、リーグ優勝の前後から、野村の愛人である伊東芳枝(のちの[[野村沙知代]])が野村の威を借りて球団内で我が物顔に振舞うようになり、本拠地・[[大阪球場]]へ電話をかけて直接選手起用に口出しするなどの現場介入を繰り返し、試合にまで悪影響を及ぼすようになっていた。このため、チーム内には野村への不満が渦巻くようになり、それと比例するように、優勝翌年の1974年は3位、{{by|1975年}}は5位と、野村ホークス南海は次第に順位を落としていった。1975年オフには、とうとう我慢の限界に達した選手たちが芳枝の排除を要求する事態に発展し、11月に江本と西岡三四郎、[[藤原満]]の3人がチームを代表して、大阪市内のホテルで野村に「公私混同を止めて下さい」と直訴した<ref>『野球バカは死なず』157-158頁</ref>。しかし、江本らの必死の訴えは聞き入れられることはなく、かえって野村の不興を買い、12月に4対2の[[交換トレード]]で[[阪神タイガース]]に放出された(南海からは江本と[[島野育夫]]、[[長谷川勉]]、[[池内豊 (野球)|池内豊]]。阪神からは[[江夏豊]]、[[望月充]])。この時、江本と同様に首謀者と見なされた西岡も[[中日ドラゴンズ]]へとトレードされている。このトレードの際に、江本を格下に見ていた江夏との間で激しい舌戦を繰り広げたが(江夏は江本に対して「俺はあんな奴と交換させられるのか。」と発言しこれに対し江本も「言いたいことばかり言って。」と応酬した)、後に和解し、[[1993年]]3月に江夏が[[覚せい剤取締法|覚醒剤取締法]]違反で逮捕された際には、江本も法廷で情状陳述を行い<ref>{{Cite web|url=http://menzine.jp/trivia/enatuemototoreedo9543/ |title=「江」が付く投手はみんな無頼派!?江夏と江本の大型トレード |publisher=MEN人|date=2013-08-25|accessdate=2016-01-24}}</ref>、服役中も面会に訪れるなど、江夏をサポートする間柄となった。
 
=== 阪神時代 ===
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{{出典の明記|date=2015年6月|section=1}}
=== 野村克也との関係 ===
南海ホークス在籍時代野村から叩き込まれた「シンキング・ベースボール(考える野球)」が自分の野球観の基本であるとしており、自分を見出し一流投手へと育て上げてくれた野村の技術力・指導力に最大級の尊敬の念を示し、「野村さんがいなかったらいまの自分は完全に存在していない<ref>{{Cite book |和書 |title = 日本プロ野球 トレード大鑑 2004 |year = 2004 |publisher = [[ベースボールマガジン社]] |series = B.B.MOOK スポーツシリーズ |pages = 48 - 49 |isbn = 4583612508}}</ref>」「やはり野村監督の野球理論はしっかりしていました。試合3時間前にミーティングをやって、1番打者から順に『ストライクだったら次は?もしボールだったら?』とやるんです。マウンドに立てばデータを忘れることもあるけど、『これだけ準備してきたんだ』というピッチングに集中できる<ref name="阿川江本"/>」と述べている。また、メディア等で野村の美談を披露したり、野村に批判を加えた際にも「僕や江夏さんくらいしか言えないから」等と言い過ぎていることを示唆するようなフォローを入れることも多く、イベントでの共演や対談など、現役引退後も師弟としてのつながりは継続している<ref>https://www.asagei.com/excerpt/101264</ref><ref>https://sportsbull.jp/p/275845/</ref><ref>https://www.nishinippon.co.jp/hawks/article/405229/</ref>。その一方で、自身が南海を追われた経緯もあって、監督としての野村を無条件に礼賛することはなく、野村が楽天の監督を退任した後の2011年には、自著で「ヤクルトのときは、たまたま若くて良い選手が入って来て、もともといた選手と歯車が合ったから優勝できた。阪神や楽天では残念なことに、その“たまたま”がやって来なかった<ref>『野村克也解体新書』133頁</ref>」と冷静に分析し、ヤクルト時代以降の野村を「富と名声を十分手に入れたにもかかわらず、いまだに自分がどう評価されているかビクビクして、自分を大きく見せるために一喜一憂している<ref>『野村克也解体新書』125頁</ref>」と評している。
 
野村は練習嫌いで喧嘩っ早い江本にずいぶん手を焼かされたという。とある試合で、野村のリード通りに投げて相手打線に打ち込まれた江本は激昂し、降板後にベンチから野村に激しく野次を飛ばし続けた。江本の気性を知っているチームメイトは誰も声をかけなかったが、見かねた[[古葉竹識]]コーチが「おい、いいかげんやめとけよ」と、静かではあるがドスの効いた口調で叱ったため、荒れ狂っていた江本は「この人、やばいな…」という恐怖心でようやく我に返ったという<ref>『野村克也解体新書』53頁</ref>。野村は江本と[[江夏豊]]、[[門田博光]]の三人を、「自分のホークス南海監督時代の三悪人」と評しているが、この「三悪人」は、「頭のいいヤンチャ坊主選手」という意味であり、野村は必ずしも悪い意味で使っていない([[鶴岡一人]]監督時代には野村と[[広瀬叔功]]、[[杉浦忠]]の三人が「南海の三悪人」と呼ばれていた)。野村は自著で「この三悪人に監督として鍛えられたおかげで、他のチームで少々クセのある選手がいても全然平気になったよ。[[山崎武司|山﨑武司]]なんてあの三人に比べたら、フーン、くらいのレベル」と述べている<ref>{{Cite book |和書 |author = 野村克也 |title = この一球 野村克也の人生論 |year = 2012 |publisher = [[海竜社]] |chapter = 人格—人間的成長なくして技術的進歩なし |isbn = 9784759312324}}</ref>。
 
=== エピソード ===
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|style="text-align: center;"|{{by2|1972}}
|rowspan="4" style="text-align: center;"|[[福岡ソフトバンクホークス|ホークス南海]]
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