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藤原明衡『新猿楽記』は平安末期というにはやや早いので後期に変えた
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これに対して夢幻能は「[[死者]]」が中心となった能である。[[観世銕之亟 (8世)|八世観世銕之丞]]は夢幻能の大きな特徴として「死者の世界からものを見る」という根本的な構造を指摘している。すなわち、多くの場合、亡霊や[[神仙]]、鬼といった超自然的な存在が主役(シテ)であり、常に生身の人間である脇役(ワキ)が彼らの話を聞き出すという構造を持っているのである。これについて銕之丞は、観阿弥・世阿弥・[[金春禅竹]]らによって猿楽が集大成された室町時代は政情不安の時代であり、死が人々にとって極めて身近なものであったことを、こうした構造の理由に挙げている<ref>『ようこそ能の世界へ』</ref>。
 
梅若猶彦もこのような死者による語りの構造を重視し、能はこのような構造を持つことで、能独自の美の世界の構築を可能としていると指摘している。梅若はその例として、「実盛」のシテである[[斎藤実盛]]の亡霊がワキの夢の中に登場し、己の死に様を語りながら、己の生首を洗うという場面を挙げている。この場面ではシテ演じる実盛の亡霊には首が付いているのであるが、同時に実盛の亡霊は切り落とされた自分の生首を手に持っているのである。このような不条理な演出が可能となっている理由として梅若は、能が一般に「ワキの夢の中でシテが夢を見ている」という難解な構造を持っていることを指摘し、「死者による語り」という夢幻能の基本構造が、こうした他に例を見ない物語世界の構築を実現していると論じている<ref>『能楽への招待』</ref>。
 
==== 即興芸術としての能 ====