「内ゲバ」の版間の差分

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日本共産党は1955年(昭和30年)の[[日本共産党第6回全国協議会|六全協]]で、従来の武装闘争路線から、議会による[[平和革命]]を目指す方向に転換したため、その指導を受ける[[日本民主青年同盟|民青]]とともに表向きは暴力反対運動を主張してきた。[[選挙]][[戦略]]の面からも、左翼が暴力的と見られることに敏感だった。しかし、民青系と新左翼系の内ゲバが起こった際には、民青系と新左翼は互いに暴行を振るい、それを新聞が「内ゲバ」「乱闘」と表現したと主張している。東大闘争でも民青もヘルメットやゲバ棒で武装して闘争を行ったが、代々木系は「正当防衛」と主張している。民青の実力部隊は「あかつき行動隊」とも呼ばれた。その内情は、[[宮崎学]]『突破者』(南風社、1996年)に詳しい。
 
[[犯罪白書]]によれば内ゲバによる事件(1968年~2000年)は件数2020件、死者は10097名、負傷者5429以上<ref name="keibimoj" />だが負傷2004年迄の死は数千人3名を加える言われてい死者100名である。内ゲバの巻き添え、あるいは[[攻撃]]側の誤認によって死傷したノンセクトや一般人も少なくない。これらは「[[誤爆]]」と言われた。しかし誤爆について、実行した党派が[[謝罪]]したケースはほとんどない。
 
また、大衆運動、学生運動の全盛期には、それらを内部分裂から自滅へ導くため、[[公安警察]]が各[[セクト]]にその敵対者の所在情報を巧みに[[リーク]]するなどし、内ゲバを裏で手引きすることもしばしばあった。敵対党派を互いに「警察の手先」と非難するのはこのためであるが、実際に内ゲバで殺された中には、[[スパイ]]として潜入していた[[警察官]]もいたという。こうした学生運動の変遷は[[社会主義]]や[[共産主義]]に対する幻滅を生み、彼ら新左翼が忌み嫌っていたはずの[[スターリン主義]]の思想とも重なり、運動の衰退を決定づけてゆくこととなる。なお最大の内ゲバ状態にあった中核派と革マル派の抗争については両派トップの会談によって[[停戦]]状態になったとされているが、両派ともに公表していない。
 
[[新右翼]]([[民族派学生組織|民族派]])においても、[[スパイ粛清事件]]など少数ではあるが内ゲバともいえる事件が発生している。
 
<!--===かつて、凶器は[[鉄パイプ]]や[[バール (工具)|バール]]など「凶器となりうるもの」を使用し、殺害そのものを目的しない方法がとられてきた(革マル派は「教育的措置」と称したため、さらに他党派の憤激を買った)。しかし、1990年代以降の革労協などは[[包丁]]や[[飛び道具]]など、まるで[[暴力団]]の[[抗争]]の如き内ゲバを演じてきた。ここまでくると、もはや思想云々ではなく、「殺人」を目的にしている[[戦争]]とも言われている。-->
<!--上記の記述と重複している。それに、1970年代には内ゲバが「戦争」に近い状態になっていったこととも食い違う。-->
また、さらに大抵の内ゲバは組織的な犯行で、盗難車を使って別のメンバーが退路の確保、[[覆面]]姿で襲撃を行うことが多いため、誰が襲撃に関与したのか特定しにくい。これに加え、電話線を切断するなどの巧妙な[[捜査]]妨害、隠ぺい[[工作]]から、白昼に行われたり、[[機関紙]]で[[犯行]]を自認したような事件でも[[公訴時効]]が成立して[[犯人]]を[[検挙]]できなかった事件は少なくない。
 
なお[[新右翼]]([[民族派学生組織|民族派]])においても、[[スパイ粛清事件]]など少数ではあるが内ゲバともいえる事件が発生している。
 
== 主な種類 ==